2023.01.11
モリコーネが抱き続けた、音楽家としての苦悩
本作のタイトルは、『モリコーネ 映画が恋した音楽家』 。“映画<に>恋した音楽家”ではない。“映画<が>恋した音楽家”だ。ここに、エンニオ・モリコーネという人物の半生が透けて見える。彼は自らの意思で作曲家になった訳ではない。運命に導かれるようにして、音楽の道を…しかも、映画音楽という少々風変わりなジャンルの音楽の道を…歩むことになったのだ。
少年時代のモリコーネの夢は、医者になることだった。しかし、トランペット奏者だった父親の意向で音楽院に入学させられ、来る日も来る日もトランペットの猛練習。やがて父親が病気になると、家族を養うためナイトクラブでラッパを吹きまくり、ゼニを稼ぐという生活を送るようになる。まだ10代だった彼にとって、そんな日々は屈辱でしかなかった。
その後、イタリア音楽の三大巨匠と称えられたゴッフレード・ペトラッシに師事し、サンタ・チェチーリア音楽院作曲科を卒業。そのまま現代音楽の道へ…という訳にはいかず、結婚したばかりということもあり、生計を立てるためRCAレコードと契約。ポップスのアレンジャーとして、精力的に仕事をこなすこととなる。
『モリコーネ 映画が恋した音楽家』©2021 Piano b produzioni, gaga, potemkino, terras
やがて『ファシスト』(61)で本格的に映画音楽に参入し、盟友セルジオ・レオーネ監督とのコンビ第1作『荒野の用心棒』で注目を浴びるようになっても、モリコーネは「本当の居場所はここではない」という感覚を持ち続けていた。アカデミックな音楽を学んだはずなのに、このまま商業音楽ばかり作り続けていいのか?自分は裏切り者なのではないか?彼は常に苦悩し続けていたのである。
ジュゼッペ・トルナトーレは、その苦悩こそが、モリコーネをモリコーネたらしめた最大の理由だと考えた。違和感を感じていたからこそ、新しいムーブメントを取り入れる柔軟な発想とセンスを映画音楽に導入することができたのだ、と。
「セルジオ・レオーネの音楽が、なぜこれほどまで豊かなのかを説明する要素のひとつだ。彼が穏やかな気持ちになる瞬間はなかった。音楽を創ること、それを人々に理解してもらうこと、常にこの二つの葛藤があった。その末にようやく彼は、映画音楽が現代的なものであることを理解したんだ」(*3)
映画<が>恋した音楽家は、キャリアの終盤に入ってからようやく、映画<に>恋した音楽家となったのである。