ありふれた青春の風景を「普遍」に昇華する傑作『レディ・バード』
とりわけ『レディ・バード』という映画は、こうした彼女の「等身大」イズムが全面発揮された画期的なマスターピースになっている。
言ってみれば、ここに提示されているのはごくありふれた、平凡な青春の風景。だがディテールをひたすら丁寧に、徹底的に描き込むことで、「平凡」が「普遍」の領域へと見事に昇華しているのだ。その“共感させる力”は半端ではない!
『レディ・バード』予告
お話の時代設定は2002年。主人公のクリスティン(シアーシャ・ローナン)は来年に卒業を控えた高校生。髪を赤く染め、“レディ・バード”というニックネームを自ら考案して名乗っている。いかにも自意識過剰な青臭さをバリバリに持てあました17歳女子だ。そんな彼女が暮らす地元はカリフォルニア州の北端に位置するサクラメントである。
本作では冒頭に「カリフォルニアの快楽主義を語る人は、サクラメントのクリスマスを知らない」という一節がテロップで表示される。これは同地出身の作家、ジョーン・ディディオン(1934年生まれ)の言葉の引用だ。
サクラメントは州都ながら、ロサンゼルスやサンフランシスコのような開放的な西海岸のイメージとは大きく異なり、キリスト教の支配が強い保守的な土地。そもそも「サクラメント」はカトリック用語で「秘跡」を意味する。
例えばクリント・イーストウッド監督の『 15時17分、パリ行き』(2018年)に登場した男子トリオの地元もここ。あの映画でも学校の規律の厳しさなどにその保守性が垣間見えたが、『レディ・バード』のクリスティンはゴリゴリのカトリック系高校に通っており、学校や土地の抑圧的な環境で内面の屈折を相当こじらせている。
そして当然にも、サクラメントはグレタ・ガーウィグ自身の地元だ。この映画はかなりの部分、彼女の自画像や実体験が投影されたもの。もっとも本人は「実際そのままのエピソードはひとつもない」とも語っており、単純な自分語りの回路ではないにせよ、パーソナルな半生をもとに再構築した血肉の通った物語であることには違いない。基本的には“クリスティン≒かつてのグレタ”と考えていいだろう。
『レディ・バード』©2017 InterActiveCorp Films, LLC.
クリスティンの憧れは東海岸だ。知的で洗練された都会の生活。彼女を地元の大学に行かせたい母親(ローリー・メトカーフ)とは車の中で口論となり、「ここは嫌い。文化のあるニューヨークやニューハンプシャーに行きたいの!」と叫んだり。要は日本で言うと、片田舎の実家で悶々としながら、進学など人生の転換期をきっかけに東京デビューを狙っているという図式。
まさしく上京組の筆者などは、生まれ育った土地は違えどクリスティンの心情にどっぷり感情移入してしまう。つまりサクラメントという特定のローカルな地理性を注視しつつ、同時にそれは、我々日本で暮らす者も共有できる、匿名的な地方都市での生活感覚につながっていることがわかる。これは具体的なディテールと、普遍的なリアリティが結びついている好例だ。最初からぼやっとしたイメージで描いている都市像や青春像などは、所詮嘘臭いものにしかならない。しかし『レディ・バード』は、本物の「等身大」の実感に満ちた描写で全編が埋まっているのだ。