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  4. 『淵に立つ』一家に入り込む他人によって露呈する家族の素顔 ※注!ネタバレ含みます。
『淵に立つ』一家に入り込む他人によって露呈する家族の素顔 ※注!ネタバレ含みます。

『淵に立つ』一家に入り込む他人によって露呈する家族の素顔 ※注!ネタバレ含みます。


オルガンと信仰を介して描かれる突出した演出



 本作の開巻は、娘の奏でる拙いオルガンの響きから始まる。娘はメトロノームを起動させることで、かろうじてリズムを取って演奏を円滑に進行させる。やがてオルガンの音は止み、一定のリズムを刻み続けるメトロノームの音だけが画面に残ってタイトルが現れる。こうしたオルガンを日常の象徴として用いるのは、音程の外れたキーの混じったオルガンから始まった黒澤明の『八月の狂詩曲』を思い出させる。淀川長治は、それは〈戦争〉の暗喩だと説いた。音階からの外れとは、日常の営みに狂いが生じる状況だというわけだ。『淵に立つ』においても、オルガンは、これから描かれる一家が、単調な日常のリズムによって平穏を維持していることを予感させる。


 前述したような類似の作品では、家庭に入り込んできた者は、思わぬ大胆な行動や、怪しげな振る舞いを見せて、家族を混乱と恐怖に陥れる。ところが本作の八坂は何もしない。淡々と仕事を手伝い、徐々に自分が過去に人を殺めてしまい、罪を償ってきたことを妻に告白するが、プロテスタントである妻は、八坂の誠実に罪を背負って生きる姿に感銘を受け、教会にまで誘うようになる。


 宗教団体のプロパガンダ映画を除けば、日本映画において信仰を作中に取り入れることは難しい。クリスマスを祝い、初詣に行くことが国民的行事になっている国民性を考えれば無理もない。『 八月の狂詩曲』では般若心経を唱える老人たちの姿が印象的に登場したが、信仰にまでは踏み込んでいない。本作は、日本人と信仰を一つの家族に振りかかる厄災によって露わにさせる。


 ボタンを一番上まで止めた白シャツに象徴される清白なイメージが崩れない八坂(寝る時ばかりか、川遊びに同行する時に至るまでこの服装のままである)は、仕事中は白の作業服を着ているが、この服もまた汚れひとつ付着していない。聖人の如き振る舞いを見せる彼が、利雄と2人きりになった時に、自分だけが刑務所に行き、利雄は平穏に家庭を築いたことを詰る瞬間がある。だが、瞬時に聖人の顔へと戻り、冗談だと言う。この場面での悪魔と天使が切り替わるかのような、浅野忠信のオンとオフの演技が素晴らしい。古舘寛治と筒井真理子という演劇畑出身の緻密な演技者と、映画畑ならではの瞬発力に満ちた浅野の組み合わせが効果を発揮するのは、こうした瞬間である。




 天使の皮を被っていた八坂が仮面を剥ぐように、白のつなぎの作業服の上半身を脱ぐと、中から赤いシャツが表れる。そしてオルガンの発表会を前に母が連夜繕い物に励んで完成させた赤いドレスを着た娘に近づき傷つける。頭から血を流して身動きすることなく倒れたままの娘に八坂が何をしたかは想像がつくが、直接的な描写もなく、詳細は詳らかではない。だが、直接的な描写よりも、慌てふためく利雄と妻の反応にこそ主眼がおかれている。夫婦の横を無表情でどこへともなく去っていく八坂は、悪魔というよりも、夫婦に試練を与える神のように見えてくる。



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