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『それでも私は生きていく』終わりと始まりの二重奏

『それでも私は生きていく』終わりと始まりの二重奏

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レア・セドゥの神秘性



「レア・セドゥは私が一緒に仕事をした中で最もミステリアスな女優です。演技なのか、それとも彼女がそこに生きていたのか分からないのです」(ミア・ハンセン=ラブ)*1


 ミア・ハンセン=ラブはレア・セドゥの才能に感銘を受けながら、一緒に仕事できる機会を探ってきたという。レア・セドゥという俳優には演技力を見せつけるようなエゴがない。これは本当に奇跡的なことのように思える。ミア・ハンセン=ラブは、これまで多くの映画でレア・セドゥが纏ってきた“装飾性”を取り外すことで逆説的に彼女の神秘性を浮かび上がらせている。女性の映画作家の作品では、映画作家の分身のような気持ちになるというレア・セドゥ。レア・セドゥのフィルモグラフィーにおいて、サンドラというカリスマ的ではない世界のどこにでもいるようなヒロイン且つ映画作家の分身のような作品は、レベッカ・ズロトヴスキとの『美しき棘』(10)や『グランド・セントラル』(13)以来といえる。『それでも私は生きていく』は二人の理想的なコラボレーション作品だ。



『それでも私は生きていく』


 レア・セドゥによるニュアンス豊かな演技。多くの場合それはヒロインが不確定な状況にいるとき、不意をつくような形で発揮される。本作においては父親の元生徒と話す際にこぼれる突然の涙や、目の前にいる父親が自分の髪型を識別できないときに胸の奥へしまう悲しみによく表わされている。サンドラはいつも迷いながら生きている。彼女はあらゆる確信から遠くに離れている。そしてレア・セドゥはサンドラのあるべき姿、“答え”を知らずに演技をしているように見える。向かい合う相手の言動や態度によって彼女は彼女の現在を発見していく。極めてスリルのある演技であり、サンドラというヒロインはレア・セドゥ自身とミア・ハンセン=ラブを新たなステージに引き上げている。


 クレマンとのベッドシーンにおける火照るような恥じらい。そしてサンドラの裸の背中を捉えられた絵画的な構図。ミア・ハンセン=ラブの映画は、物語以上に俳優の存在を捉えようとする。存在が物語を語っていくと言えばよいだろうか。批評家ジャン=ミシェル・フロドンは、ミア・ハンセン=ラブが敬愛するエリック・ロメールの映画について「映像が最も明瞭なときに謎が含まれる」と分析している。裸のサンドラの背中を捉えたショットは、本作において最も輪郭のハッキリしたショットといえる。しかし映像の輪郭が明瞭であればあるほど、サンドラの身体は神秘性に包まれる。クレマンはサンドラの神秘に感嘆する。サンドラは彼女自身の身体を発見する。不確定性と確定性の間を目まぐるしく行き交うレア・セドゥの不意をつく演技は、ミア・ハンセン=ラブの映画と幸福なマリアージュを果たしている。ミア・ハンセン=ラブは、レア・セドゥの演技を見ながら思わず泣いてしまったのだという。




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