1. CINEMORE(シネモア)
  2. 映画
  3. それでも私は生きていく
  4. 『それでも私は生きていく』終わりと始まりの二重奏
『それでも私は生きていく』終わりと始まりの二重奏

『それでも私は生きていく』終わりと始まりの二重奏

PAGES


物の記憶、その模様



「本人よりも本を見るほうがパパを感じる。選んだ本から人間性が見える。それぞれの本に色があって、合わせるとパパの肖像画になるの」


 哲学者だった父親の残した書棚を前に、サンドラは娘のリンにそう告げる。母親(ニコール・ガルシア)から本を捨てることを提案されたサンドラは、捨てるくらいなら燃やした方がいいと怒ってしまう。父親の愛した本、好きだったレコード。空っぽになっていく部屋に残された者の痛み。サンドラはこの耐えがたい悲しみに抵抗しようとする。しかし悲しみへの抵抗以上にゲオルグの収集した本の中に、父親そのものがいることを感じている。残された本は、もしかしたら元気だった頃の父親の本当の姿を人間以上に知っているのかもしれない。


 前作『ベルイマン島にて』(21)のイングマール・ベルイマンが過ごした部屋、またはフォーレ島自体がそうであったように、ミア・ハンセン=ラブはその人が愛した物に思いを馳せる。記憶や魂が物質に宿る。残された者が物質にその人の記憶を形作っていく感覚。もしかしたらそれは正確性に欠けるかもしれない。しかしこの感覚は切実に理解できるものがある。



『それでも私は生きていく』


 ゲオルグの発する言葉は明瞭さを失っていく。しかし哲学者としてこよなく言葉を愛したゲオルグは頭脳の明晰さを失っても尚、常に何かを探し求めているような言葉を紡いでいく。ミア・ハンセン=ラブはパンデミックの最中に哲学者だった父親を失っている。『それでも私は生きていく』の本棚には、実の父親の残した本がそのまま移植されているという。そして病気の父親の残した音声をゲオルグ役のパスカル・グレゴリーに聞かせている。


「父が最後まで守り通したのは礼儀正しさだった。パスカルは父がどんな人であったかという感覚をとらえたのです。素晴らしい解釈です」(ミア・ハンセン=ラブ)*2


 ゲオルグが断片的に紡ぐ言葉は、どこか詩のようでさえある。ゲオルグは言葉だけでなく、視界も失っていく。サンドラが美術館にクロード・モネの絵画を見に行くシーンは、河、そして水の映画作家であるミア・ハンセン=ラブの作家の刻印に留まらず、明瞭さを失い模様となった父親の言葉や視界と符合している。更にモネの印象画、その色彩は、不確定性の中を迷いながら生きているサンドラの現在とも符合している。




PAGES

この記事をシェア

メールマガジン登録
  1. CINEMORE(シネモア)
  2. 映画
  3. それでも私は生きていく
  4. 『それでも私は生きていく』終わりと始まりの二重奏