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『それでも私は生きていく』終わりと始まりの二重奏

『それでも私は生きていく』終わりと始まりの二重奏

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『それでも私は生きていく』あらすじ

サンドラ(レア・セドゥ)は、夫を亡くした後、通訳の仕事に就きながら8歳の娘リン(カミーユ・ルバン・マルタン)を育てるシングルマザー。仕事の合間を縫って、病を患う年老いた父ゲオルグ(パスカル・グレゴリー)の見舞いも欠かさない。しかし、かつて教師だった父の記憶は無情にも徐々に失われ、自分のことさえも分からなくなっていく。彼女と家族は、父の世話に日々奮闘するが、愛する父の変わりゆく姿を目の当たりにし、サンドラは無力感を覚えていくのだった。そんな中、旧友のクレマン(メルヴィル・プポー)と偶然再会。知的で優しいクレマンと過ごすうち、二人は恋に落ちていくが……。


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終わりと始まりの二重奏



 サンドラ(レア・セドゥ)の毎日は忙しい。ベンソン症候群を患う父ゲオルグ(パスカル・グレゴリー)の介護。シングルマザーとして幼い娘リンの世話。偶然再会したクレマン(メルヴィル・プポー)とのロマンス。サンドラの生活はミア・ハンセン=ラブによる自然主義的なタッチによって淡々と描写されていくが、実際の彼女の生活はむしろ淡々とした描写の対局にある。サンドラには日常生活を営む上で複数の役割がある。傷ついた娘であり、子供思いの母であり、ロマンスに揺れるサンドラ。サンドラの“複数の顔”は、ほとんど無意識のスピードで状況に応じて変化していく。そしてすべての役割には何ひとつ矛盾するところがない。私たちの生活と同じように。


 サンドラは正直な母親だ。彼女は娘のリンに何も隠さない。ゲオルグが衰えていく姿やクレマンとのロマンスを隠さず、一緒に見た映画について「イマイチ」と正直な感想を伝える。自分の気に入った映画をやんわりと否定されたリンは、当然ながらムッとする。しかし本作におけるサンドラの正直さは、素晴らしい“教育”のように思える。サンドラが下手に相手に同調したりしないのは、リンのことを本気で愛しているからだ。将来大人になったリンは、いま経験している様々な風景を思い出すだろう。その中心には大切な人には常に正直に接することを貫いていた母親の姿があるはずだ。



『それでも私は生きていく』


「哀れみを誘っちゃダメ、人に哀れまれたら終わりよ」


 祖母の話に黙って耳を傾けるサンドラとリン。足の不自由な祖母は車椅子の手放せない生活を送っている。祖母は哀れみを受け入れることを拒否せよという。しかし祖母の話を聞くサンドラの瞳の奥には、哀れみや無力感、迷い、それらをすべて含んだような感情が滲んでいる。そしてこのときリンは一部始終の観察者になっている。


 親が衰えていく姿を見るのは人生でもっとも辛い出来事の一つだ。『それでも私は生きていく』(原題「Un Beau Matin」の直訳は「ある晴れた日の朝」)には、終わりと始まりが二重奏のように描かれている。刻々と明瞭さを失っていく記憶。肉体の消滅へと向かっていく父の姿。子供たちの未来。誕生と消滅。そしてミア・ハンセン=ラブ的なテーマといえる“家族の再構成”。本作の姉妹編といえる『未来よ こんにちは』(16)のタイトルクレジット「l'avenir(=未来)」が、海に臨む墓石を背景に刻まれたように、ミア・ハンセン=ラブは相反するトピックを“人生の二重奏”として描いていく。




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