ソフィスティケートされた喜劇性
いきなりネタバレさせていただきますが、ミス・フロイはイギリスの諜報員であり、バンドリカ国のスパイであるハーツ医師(ポール・ルーカス)が列車の乗客を買収して、彼女を拉致しようとしていた…というのが事の真相。バンドリカは明らかに当時のナチスドイツを模した架空の国家で、第二次世界大戦直前の政治状況がはっきりと描かれている。
だが、『バルカン超特急』は深刻ぶった国際政治サスペンスではない。むしろ、アイリスとギルバートが対立しながらも次第に心を通わせていく、ユーモアたっぷりのロマンチック・コメディである。エルンスト・ルビッチやビリー・ワイルダーにも近似した、ソフィスティケートされた喜劇性があるのだ。
『バルカン超特急』(c)Photofest / Getty Images
特に本作の第1幕は、てんやわんやの大騒動。雪崩に巻き込まれた外国人旅行者たちが、マンドリカのホテルに押し込められて、アイリスが結婚を控えて女友達とバチェロレッテ・パーティーを繰り広げたり、ギルバートが民族舞踏の研究と称してクラリネットを吹きまくったり、もう大騒ぎ。このスクリューボール・コメディ感ったら!この第一幕でおよそ30分弱を要しているから、97分の上映時間でヒッチコック的なスリラーが起動するのは、全体の1/3が経過してからなのだ。
ちなみに、熱烈なクリケット愛好家カルディコット(ノウントン・ウェイン)とチャータース(ベイジル・ラドフォード)のコンビは、この映画をきっかけに人気が爆発。『ミュンヘンへの夜行列車』(40)、『Millions Like Us』(43)など様々な映画に登場している。確かに、R2-D2とC-3POを彷彿とさせる凸凹コンビぶり、丁々発止のやりとりは観ていて楽しい(てっきりこの二人が物語の中心になるかと思いきや、ホントにただクリケットの話をするだけのおじさん達だった)。
カルディコット&チャータースの人気コンビが輩出されたのも、ヒッチコックの手腕があってこそ。サスペンスの神様は、コメディのセンスも卓越していたのである。