食堂車シーンの卓越した演出術
筆者はこれまで、幾度となくこの『バルカン超特急』を見返しているのだが、その度にアイリスとギルバートが食堂車で会話するシーンに唸ってしまう。
この時点でアイリスは、自分自身を疑っている。煙のように消失してしまったミス・フロイは本当は列車に乗っておらず、自分の思い込みだったのかもしれないと感じ始めている。列車に乗る直前に、落ちてきた植木鉢で頭を打ってしまうのは、その伏線だ。そんなアイリスが、食堂車の窓に書かれた「フロイ」の文字を発見して、彼女は実際に存在していることを確信する。
『バルカン超特急』(c)Photofest / Getty Images
おそらく凡百の映画監督なら、
①何かに驚くアイリスのクローズアップ
②窓に書かれたフロイの文字
③「やっぱり彼女はいたんだわ!」と叫ぶアイリス
④驚くギルバート
と撮ることだろう。だがヒッチコックは、
①ギルバートの肩越しにアイリスが窓の方に目をやる
②その横顔を見て「なんて魅力的なんだ」と語るギルバートのクローズアップ
③窓を見続けるアイリスのクローズアップ。「見て」と冷静に話す
④窓に書かれたフロイの文字
とカットを割っていく。そもそも我々観客は、窓にフロイの文字が書かれていることを“知っている”。二人が何気ない会話をしていても、アイリスがいつそれに気づくのかを、固唾を飲んで見守っている。二人が食堂車に入ってきた時点で、実はサスペンスが生成されているのだ。
だとすれば、アイリスが驚くクローズアップをインサートするのではなく、彼女が文字を発見した興奮を観客にもじっくり体感させることで、よりエモーションが生まれるはず。そして窓に書かれたフロイの文字を映した瞬間、激しく汽笛が鳴る。トンネルに入る直前であることを示していると同時に、この大発見をSE(効果音)としても強調している。おそらく、そこまでヒッチコックは計算していたのではないか。
イギリス時代のヒッチコック最高傑作にして、列車スリラーの原点。『バルカン超特急』には、若き演出家の卓越した演出術が張り巡らされている。
文:竹島ルイ
ヒットガールに蹴られたい、ポップカルチャー系ライター。WEBマガジン「POP MASTER」主宰。
(c)Photofest / Getty Images