生まれ変わるヒロイン
『ルナ・パパ』のロケ地タジキスタンの小さな村には未開拓地のような雰囲気がある。キルギス、タジキスタン、ウズベキスタンの三か国の国境が接する地域に建てられた3.5キロメートルにも及ぶ広大なセットは、吹きさらしの荒野、西部劇の舞台、そして何より無声映画時代のハリウッドの砂漠のようでもある。とてもインフラが整ってるとはいえない架空の集落。豪雨の影響でセットの大半が壊れてしまったという撮影中のエピソードも残されている。
長編デビュー作『少年、機関車に乗る』(91)の機関車。第二作『コシュ・バ・コシュ 恋はロープウェイに乗って』(93)のゴンドラ。フドイナザーロフ監督の映画において、乗り物はロードムービー的な舞台装置であるのと同時に、外敵から身を守る救助船のような役割を担ってきた。『ルナ・パパ』においては、マムラカットが“マシン”そのものになる。マムラカットは自分で自分の身を守る必要に迫られている。傷だらけのマムラカットが突き進むところに、新たな物語が生まれていく。
演劇が大好きなマムラカット。本作に描かれる演劇のシーンは、絵画的な美しさで祝祭的な空間を創り出している。マムラカットは演じることに憧れている。マムラカットの母親は、彼女が生まれたときに亡くなった。歌や踊りの好きな母親だったという。本作の祝祭的な演劇空間は、マムラカットが母親の胎内で聞いていたであろう音楽のリズムと共鳴している。
マムラカットは村にやって来た劇団の公演に間に合わない。大好きな演劇を見ることが叶わなかった。そして月が妖しい光を放つある晩、マムラカットは夢に浮かされた少女のまま、森の奥、崖の底へと滑り落ちていく。ファンタジックな影の男性と結ばれた彼女は、後日妊娠を知ることになる。
マムラカットとその家族がはじめるお腹の子の父親探しは、祝祭的な演劇空間の破壊へと展開されていく。父と兄は演劇を何度も中断させ、舞台俳優に疑惑をかけ、不条理に問い詰めていく。このドタバタ空間の演出が素晴らしい。どこから何が飛んでくるか分からない予測不可能なコメディが展開される。舞台上の物語のレールから踏み外すことで思いがけない物語が生まれる。破壊によって生まれた新たな“劇”。この不条理喜劇の主演はもちろんマムラカットだ。このとき彼女は、夢にまで見た演劇の“ヒロイン”として無意識の間に生まれ変わっている。