退屈なプロセスを克明に描く
本作の脚本を手がけたのは、デヴィッド・フィンチャーとは『セブン』(95)以来およそ30年ぶりのタッグとなるアンドリュー・ケヴィン・ウォーカー。ノン・クレジットながら『ゲーム』(97)、『ファイト・クラブ』(99)のリライト作業に関わり、『パニック・ルーム』(02)では俳優としてカメオ出演も果たしている、フィンチャーの盟友である。
アンドリュー・ケヴィン・ウォーカーは原作のグラフィック・ノベルを何度も読み返し、アルベール・カミュの「異邦人」やニーチェの著作を読み込んで、“疎外感”や“優越思想”というモチーフを織り込んだシナリオを膨らませていく。何よりも彼がこだわったのは、冒頭20分のシークエンス。パリの安アパートでターゲットを射殺するタイミングを見計らいつつ、体を鍛え、ヨガをし、常に脈拍が安定しているかどうかをチェックする暗殺者の姿を、克明に描いていく。
地味すぎるカットの連続。そこには派手なアクションも、手に汗握るサスペンスもない(一箇所、暗殺者の部屋に誰かが侵入しようとする場面があったくらい)。アンドリュー・ケヴィン・ウォーカーは序盤の展開について、はっきりと“退屈”という表現を使っているくらいだ。
Netflix映画『ザ・キラー』11月10日(金)より独占配信
「うまくいけば、第1幕…つまり最初の20分くらいは、観客の期待を裏切るという、私が本当にやりたいと思っていることができると思った。それは、プロセスを厳格に示すことだ。あるとき、スティーブン・ソダーバーグがあるカットについて意見を述べたんだよ。そうしたらフィンチャーは、“退屈に耐えられないなら、この作品は君には向かない“と言ったんだ。これは“猛烈なスピードで始まるものではない“と観客に警告する、いい方法だしね。このような仕事をしている人間が身につけているのと、同じような退屈さと細心の注意を、観客に体験させるのが好きなんだ」(*3)
『ザ・キラー』には、ジョン・ブアマン監督の『殺しの分け前/ポイント・ブランク』(67)、ジャン=ピエール・メルヴィル監督の『サムライ』(67)、フレッド・ジンネマン監督の『ジャッカルの日』(73)のような、60年代・70年代の犯罪映画の香りがする。これらの作品もまた、精密時計のような慎重さと綿密な計画に基づいて、殺し屋がプロとしての仕事を完遂するまでを乾いたノワール・タッチで描出していた。<冗長とも思えるプロセスを、丁寧すぎるくらいに丁寧に描く>ことが、フィンチャー・スタイルなのである。
そして、鑑賞しているうちにふと我々は気づいてしまうーーこの几帳面な暗殺者は、デヴィッド・フィンチャー自身であることを。