2020.05.25
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サスペンスを主題にしないサスペンス映画の巨匠
デヴィッド・フィンチャーはこれまでのフィルモグラフィーで、数多くのサスペンス映画を手がけている。筆者の独断と偏見で、作品にラベル付けしてみよう。異論・反論は受け付けませんので、念のため。
『エイリアン3』(92)SF映画
『セブン』(95)サスペンス映画
『ゲーム』(97)サスペンス映画
『ファイト・クラブ』(99)サスペンス映画
『パニック・ルーム』(02)サスペンス映画
『ゾディアック』(07)サスペンス映画
『ベンジャミン・バトン 数奇な人生』(08)ファンタジー映画
『ソーシャル・ネットワーク』(10)青春映画
『ドラゴン・タトゥーの女』(11)サスペンス映画
『ゴーン・ガール』(14)サスペンス映画
彼が監督と製作総指揮を務めたテレビドラマ「ハウス・オブ・カード 野望の階段」(13〜18)も、野心家の下院議員があらゆる権謀術数を駆使して、最高権力者へとのし上がっていくポリティカル・サスペンス。同じく監督・製作総指揮を手がけた『マインドハンター』(17〜)は、FBI捜査官がプロファイリング手法を確立するまでを描いたクライム・サスペンスだ。
ほんの少しの例外を除いて、デヴィッド・フィンチャー作品はサスペンスだらけ。もはやこのジャンルの巨匠である、と言い切ってしまってもいいほど。だが不思議なのは、これだけの数を扱っているにも関わらず、サスペンスそのものが主題となっている作品は少ない、と言う事実である。
“サスペンスの神様”サー・アルフレッド・ヒッチコックは、ただ純粋に観客を楽しませんとするエンターテイナーだった。彼にとってサスペンスは、手法であり主題そのものだったのである。『北北西に進路を取れ』(59)しかり、『鳥』(63)しかり。しかしフィンチャーは、サスペンスというフォーマットを隠れ蓑にして、あらゆるテーマを乱反射し続けてきた。彼にとってサスペンスとは、ストーリーを語るための容器にすぎない。