牛が見た星
撮影前に映画で着用する衣装を着て実際にサバイバル生活を送った主役の二人は、マッチを使わずに火をおこすこともできるようになっていたという。乏しい調理器具でドーナツを作っていくクッキーの手つきが美しい。ドーナツが食べたくなるばかりか、実際にドーナツを作ってみたくなるほど魅力的な描写だ。ケリー・ライカートは俳優が自然な動きをとれるスキルを身につけるまで待つ演出家だ。『ファースト・カウ』にも仲買人の妻として出演しているリリー・グラッドストーンは、『ライフ・ゴーズ・オン 彼女たちの選択』(16)に出演した際、牧場従事者のあらゆるスキルを身につけていたという。リハーサルを好まないと言われるケリー・ライカートの映画にとっては、俳優の準備期間、リサーチ期間こそがリハーサルといえるのかもしれない。
クッキーはこの土地の自然と完全に調和している。なにより牛のイーヴィーと調和している。本作は牛の視点で撮られた映画といえる。強制的にこの土地に送りこまれ、移動中にパートナーや子供を亡くしたこの雌牛もまた、クッキーやキング・ルーと同じように孤独な“移民”なのだ。『オールド・ジョイ』以来の盟友ジョナサン・レイモンドの原作には登場しないという牛。イーヴィーの存在によって『ファースト・カウ』は、いつまでも続く砂漠で方向感覚を見失っていた『ミークス・カットオフ』の女性たちと接続される。あるコミュニティ内で力を持っている男性の勝手な都合に振り回される女性という構図だ。運命に振り回されるイーヴィーが、いかだに乗って登場する瞬間から、終始超然とした存在であるところも素晴らしい。彼女には『ミークス・カットオフ』で銃を手に取ったミシェル・ウィリアムズのような品性がある。大きな瞳、その存在自体が、クッキーが見上げる夜空に輝く星たちと同じくらい超然としている。
『ファースト・カウ』© 2019 A24 DISTRIBUTION, LLC. ALL RIGHTS RESERVED.
ケリー・ライカートの映画では、いつも動物が重要な役割を担ってきた。『ファースト・カウ』においてはイーヴィーと森のフクロウ、男性の肩に乗ったカラス、そして冒頭の犬が、観客と同じように、この土地に起こるすべてを見ているのだろう。動物たちは二人の住居=楽園エデンが無残に破壊されていく音をきっと聞いている。
楽園を追われたクッキーとキング・ルーによる未開の地における彷徨に、『ミークス・カットオフ』の倒木に刻まれた“ロスト”という文字を思い出さずにいられない。地図にない世界で迷子になった二人による、歴史に残らなかった見果てぬ夢と生活の実験が『ファースト・カウ』には描かれている。地中から始まった物語。クッキーとキング・ルーが見上げた夜空には、無情なまでに光輝く星々があったはずだ。牛やフクロウや犬も、きっと夜空を見上げたはずだ。本作の強度がそう信じさせてくれる。まだ名前のない星に名前を付けるのは、私たちオーディエンスの役目だ。映画史に刻まれるであろう新たな傑作の誕生を心から祝福したい。
*MUBI NOTEBOOK [The Cow's Gaze: A Conversation with Kelly Reichardt ]
映画批評。「レオス・カラックス 映画を彷徨うひと」、ユリイカ「ウェス・アンダーソン特集」、リアルサウンド、装苑、otocoto、松本俊夫特集パンフレット等に論評を寄稿。
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『ファースト・カウ』
12月22日(金)よりヒューマントラストシネマ渋谷、新宿武蔵野館ほか全国公開中
配給:東京テアトル、ロングライド
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