アンチ・ヒロイックな報復ミッション
世界的なシオニスト機構のZOA(シオニスト・オーガニゼーション・オブ・アメリカ)は、「スピルバーグ監督の『ミュンヘン』は歴史ではない。まだ多くのことが解明されていない物語を、フィクションとして描いたものである」(*6)というステートメントを発表し、さらにこう続けている。
「スピルバーグ監督の『ミュンヘン』は、パレスチナのテロリストたちに匹敵するような不道徳な殺戮キャンペーンに、イスラエルが関与していたという歪んだメッセージを伝えているが、実際にはイスラエル民間人を殺害した犯人を排除したのであって、罪のない民間人を意図的に殺したわけではない。ドイツがミュンヘンのテロリストを自由にしたため、イスラエルの対テロ作戦が必要になったという事実を完全に省略し、テロと対テロの間の道徳的区別をごまかすことによって、『ミュンヘン』は出来事の描写に深い欠陥を提示している」(*7)
おそらく『ミュンヘン』は、“テロと対テロの間の道徳的区別”を徹底的に回避したがために、イスラエルから(そしてパレスチナからも)批判を浴びてしまったのだろう。スピルバーグはこう反論する。
「私が誇りに思っているのは、脚本家のトニー・クシュナーと私、そして俳優たちが、映画の中で誰も悪者にしなかったことだ。私たちはターゲットを悪者にしていない。彼らは個人だ。家族もいる。ミュンヘンで起きたことは非難するけれどね」(*8)
『ミュンヘン』(c)Photofest / Getty Images
“悪者にしない”とは、パレスチナ過激組織「黒い九月」も、イスラエル諜報特務庁「モサド」も、内面がごっそり抜け落ちた表面的キャラクターとしては描かない、という意味ではないか。彼らは冷酷無比な暗殺マシンではなく、感情を持った人間だ。悩みを抱え、逡巡する。だからこそスピルバーグは、アヴナー(エリック・バナ)を決して英雄視せず、報復行為を決してヒロイックには演出しない。むしろ戸惑いと失敗の記録として暴き出す。
最初の暗殺では、殺人に慣れていないアヴナーたちの心の動揺をターゲットに見透かされ、銃を下せと諭される。意を決して小口径の拳銃を発砲すると、舞い散るのは真っ赤な血ではなく、小袋に抱えていた白い牛乳だ。第二の暗殺では、幼い娘が巻き添えになってしまうことを察知して、慌てて爆弾の起動を中止する。第三の暗殺では、爆薬の量が多過ぎたことで、ホテルの宿泊客を巻き添えにしてしまう。苦悩を抱えた男たちの、アンチ・ヒロイックな報復ミッション。スピルバーグは、「神の怒り作戦」と名付けられたプロバガンダから、その意義と神性を剥ぎ取ってしまう。
スピルバーグは『ハルク』(03)の芝居を観て、アヴナー役にエリック・バナをキャスティングすることを決定したのだという。彼が演じるロバート・ブルース・バナーは、聡明な天才的物理学者であり、怒りがMAXに達すると緑色の怪物に変身して暴走してしまう超人でもある。真っ二つに引き裂かれた感情、自分を制御しきれない哀しみ。それはイスラエルに忠誠を誓いつつも、報復行為の正当性に疑問を感じ始めてしまったアヴナーにどこか符合する。