支配=コントロールという主題
今や世界的名匠の一人に数えられるまでになった、ヨルゴス・ランティモス。だがギリシャで風変わりな映画を撮っていた頃から、彼が扱うテーマは一貫している。それは、支配=コントロールという主題だ。あるときは「社会的抑圧からの個人の解放」という形をとって現れ、あるときは「お互いが支配権を奪い合う骨肉バトル」として現出する。
例えば『籠の中の乙女』は、狂信的な両親によって社会から完全に断絶され、徹底した管理下で育てられてきた子供たちが、自由への扉を開こうとする物語。『アルプス』(11)は、今はこの世にいない故人を演じることで、愛する者を亡くした人たちに癒しを与えようとするうちに、演技と現実の境界線が曖昧になり、自分が自分をコントロールできなくなっていく。
『ロブスター』(15)は、ある独身者が強制的に身柄を拘束され、45日以内に配偶者を見つけないと動物に変えられてしまう施設から抜け出すも、今度は恋愛禁止のルールを掲げるレジスタンス集団に取り込まれてしまい、両極端な2つの支配に苦悩する。『聖なる鹿殺し キリング・オブ・ア・セイクリッド・ディア』(17)は、家族に死が迫る状況を打破するため、“呪い”をかけた少年から父親が支配権を奪おうとするストーリーで、『女王陛下のお気に入り』は、アン女王の絶対的支配下で、彼女の寵愛を独り占めすべく2人の女性の壮絶なバトルが描かれる。
『哀れなるものたち』©2023 20th Century Studios. All Rights Reserved.
これまでオリジナル・ストーリーを作り続けてきたヨルゴス・ランティモスにとって、『哀れなるものたち』は初となる原作付き映画。とはいえこの作品もまた、彼が描いてきたテーマを継承した作品になっている。父権的社会の“支配”から、一人の女性が自由を獲得していく物語なのだから。…しかも、極めて主体的に。
例えば『マイ・フェア・レディ』(64)は、オードリー・ヘプバーン演じる花売り娘イライザが、徹底的な教育を受けることによって、レディへと変貌を遂げていくミュージカルだった。彼女は男性から教わる立場なのである。一方のベラは、主体的に学び、考え、世界を認知していく。自立するまでのプロセスが、受動的ではなく能動的なのだ。
原作では、医学生のマックスの第一人称によって綴られる形式になっている。つまり彼女が性愛の悦びを知り、叡智を宿していくまでのプロセスは、男性の目を通して描かれているのだ。
だが映画では、そんな男性からの眼差しをすり抜けて、より自立的に成長していく姿がスクリーンに刻まれている。極めて現代的なアプローチといえるのではないだろうか。