1. CINEMORE(シネモア)
  2. 映画
  3. 落下の解剖学
  4. 『落下の解剖学』見えない真実に目を凝らす
『落下の解剖学』見えない真実に目を凝らす

©2023 L.F.P. – Les Films Pelléas / Les Films de Pierre / France 2 Cinéma / Auvergne‐Rhône‐Alpes Cinéma

『落下の解剖学』見えない真実に目を凝らす

PAGES


転落死する男と疑惑の妻、そしてもうひとりの男



 法廷での審理からやがてわかってくることに、夫妻の関係はさまざまな問題を抱えていた。すでに破綻していたと見る人もいるかもしれない。だとすれば、「落下」したのはサミュエルだけでなく、夫婦関係でもあったのだ。『LAタイムズ』のレビューの言葉を借りれば、裁判は「結婚の検死解剖」(an autopsy of a marriage)の様相をも帯びることとなっていく(*3)。


 とはいえ、サンドラによる殺害を立証しようにも状況証拠しか存在しない。検事(アントワーヌ・レナルツ)は時に強引にも見える主張を展開し、彼女が犯人だという印象を作り上げようとする。この検事の外見が、法曹界の人間にはちょっと見えないのも面白い。


 法廷を彩る人物としては、もちろんサンドラの弁護士、ヴァンサン(スワン・アルロー)にも注目せねばならない。夫が転落死して妻に殺人の嫌疑がかかる映画といえば、パク・チャヌクの『別れる決心』(22)であり、増村保造の『妻は告白する』(61)である。前者では事件を捜査する刑事が、後者では夫妻と親しくしていた製薬社員が、妻に翻弄され、恋に落ちる。この映画でその立場になる可能性があるのはヴァンサンだが、サンドラと彼の関係は非常に繊細だ。ふたりはずっと若いころにすでに何かがあったようなのだが、映画はそれを完全に明かすことはない。おそらくサンドラは彼の気持ちをある意味利用しているのだけれど、ヴァンサンのほうも承知の上だろう。物語の主軸になることはないこの微妙な関係性の描写も、映画の味わいに厚みを与える。



『落下の解剖学』©2023 L.F.P. – Les Films Pelléas / Les Films de Pierre / France 2 Cinéma / Auvergne‐Rhône‐Alpes Cinéma


言葉と真実



 審理の内容に移ろう。夫妻は問題を抱えていた。ダニエルの視覚障害の原因となった、7年前の事故をめぐって。サンドラが作品を次々発表して名声を博していくのに対し、作家志望のサミュエルは執筆すらままならなかったことについて。サンドラの性的指向と、放埓とも見える振る舞い。そしてサミュエルの構想していた作品をめぐる、ある決定的な出来事。


 だが夫婦のかたちはさまざまだ。傍目にはどのように見えようとも、ふたりは上手く行っていたのかもしれない。口論のなかで相手を罵ったとしても、それが本心だとどうして言えるだろう? 人はしばしば心にもない言葉を口にする。その場の感情の勢いで、あるいは気持ちを隠すための演技として、あるいは相手を挑発するために。



『落下の解剖学』©2023 L.F.P. – Les Films Pelléas / Les Films de Pierre / France 2 Cinéma / Auvergne‐Rhône‐Alpes Cinéma


 真相を見えづらくしている要素はほかにもある。まず『別れる決心』同様、この物語には、異なる言語を行き来することによる齟齬の可能性が内包されている。サンドラはドイツ出身、サミュエルはフランス出身。ふたりはいわば「中間地帯」として、普段英語で会話していた。自分がほんとうに思っていることを、母語以外の言語でどこまで忠実に表現できるだろうか。そのうえサンドラは法廷で、英語よりも苦手だというフランス語で話すよう強いられさえするのだ。


 もうひとつ、これがいちばん厄介なのだが、サンドラは自分の経験に基づいて書く作家であると同時に、「フィクションが現実を破壊」することをもくろむ作家でもあった。人々は事件に彼女の作品を重ね、法廷のなかで、あるいは裁判を報じる言説のなかで、現実はフィクションに侵食されていく。




PAGES

この記事をシェア

メールマガジン登録
  1. CINEMORE(シネモア)
  2. 映画
  3. 落下の解剖学
  4. 『落下の解剖学』見えない真実に目を凝らす