世界の裂け目
『悪は存在しない』はまったく新しいタイプの濱口映画だが、これまでの濱口映画のエッセンスを進化させてもいる。この土地にグランピング場を作ろうとする芸能事務所による地元住民への説明会のシーン。ここでの議論は濱口映画の真骨頂だ。『PASSION』(08)以降、彼の映画を追いかけてきた者としては、「きたきた!」と“濱口タイム”の登場に嬉しくなる。
安っぽい企業PR映像を皮切りに、形ばかりの説明会を始める高橋(小坂竜士)と黛(渋谷采郁)。企業の杜撰な計画はすぐに明らかになり、ピリピリとした空気が渦巻く中、高橋の仮面は木っ端みじんに破壊されていく。このシーンでは地元民と企業側との間にある“裂け目”が露出されていく。『ドライブ・マイ・カー』(21)のオーディションシーンで、壁側へ女性を追い詰めていく高槻(岡田将生)の演技が、オーディション会場という空間に“裂け目”を切り開いたように、そこには“暴力”がある。しかし最初から喧嘩腰の青年を除き、ほとんどの住民は企業側との真摯な対話を望んでいる。そして説明会を任された二人もまた企業の犠牲者でもある。
『悪は存在しない』©2023 NEOPA / Fictive
それぞれの話し手の言い回しや声のトーンもさることながら、地元住民の主張に動揺を隠せず、徐々に相手の話を聞くことを知っていく二人の変化も素晴らしい。そしてこのシーンで語られる議論は、あきらかに政治の話でもある。上流に住む者は下流に住むものに対して、その振る舞いに大きな責任がある。権力者の勝手な行動の責任を負わされるのは、いつも一般の市民だ。私たちの生きている世界とまったく同じことだ。
車という移動手段が亡き妻の声との“対話”の舞台になっていた『ドライブ・マイ・カー』に続き、本作の車は大きな演出装置になっている。車という親密な空間の中で、話すことによる“裂け目”が生まれる。その“裂け目”には様々なヴァリエーションがある。運転中の高橋が助手席に座る黛の前で声を荒げるのは暴力的な“裂け目”だ。しかし唐突な笑いや、話すことによる自分の発見という“裂け目”も同列で描かれている。高橋は薪割りに人生の喜びを覚える。薪を割るときの音の響き。そしてこの町に度々響く狩猟の銃声。本作における発声や音の響きによる世界の“裂け目”には、喪失と獲得が常に両義的に存在するといえる。聞く人によってそれはどちらの側にも転がっていく。もし「悪は存在しない」という言葉が成立するならば、世界のあらゆる“音”に悪は存在しない、ということなのかもしれない。