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『違国日記』フレーズというメロディ、フレームというエコー

Ⓒ2024 ヤマシタトモコ・祥伝社/「違国日記」製作委員会

『違国日記』フレーズというメロディ、フレームというエコー

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『違国日記』あらすじ

両親を交通事故で亡くした15歳の朝。葬式の席で、親戚たちの心ない言葉が朝を突き刺す。そんな時、槙生がまっすぐ言い放った。「あなたを愛せるかどうかはわからない。でもわたしは決してあなたを踏みにじらない」槙生は、誰も引き取ろうとしない朝を勢いで引き取ることに。こうしてほぼ初対面のふたりの、少しぎこちない同居生活がはじまった。人見知りで片付けが苦手な槙生の職業は少女小説家。人懐っこく素直な性格の朝にとって、槙生は間違いなく初めて見るタイプの大人だった。対照的なふたりの生活は、当然のことながら戸惑いの連続。それでも、少しずつ確かにふたりの距離は近付いていた。だがある日、朝は槙生が隠しごとをしていることを知り、それまでの想いがあふれ出て衝突してしまう――。


Index


フレーズのエコー、フレームのエコー



 「柔らかな年頃。きっとわたしの迂闊な一言で人生が変わってしまう」


 瀬田なつき監督による『違国日記』(24)は、自由連想のように紡がれる言葉の余白に、ひたすら明るい少女、朝(早瀬憩)の輪郭に、無力だった十代の頃の空気が宿っている。スポンジのようにあらゆる経験を吸収していく柔らかな年頃。たった一言のフレーズによって人生が左右されてしまう。傷つけるつもりなんてなかった。たとえそうだとしても、その人を傷つけてしまったという事実は変えられない。そのフレーズが放たれたときの空気の匂いや言葉の抑揚、相手の表情は、大人になっても心の奥底で生き続ける。同時に自分が放った迂闊なフレーズが、誰かを傷つけてしまったであろうことを振り返る。言葉にしてはいけないことはある。あんなこと言うべきじゃなかった。どうして自分はあんなに未熟だったのだろう。心の中で“ごめん!”と必死に謝る。しかしそれはあのときのあなたには届かない。それが十代の頃の思い出ならば、その影はより深くなっていく。



『違国日記』Ⓒ2024 ヤマシタトモコ・祥伝社/「違国日記」製作委員会


 交通事故で両親を失った朝。自分だけがぽつんと世界に取り残されていくような葬式の席。朝を引き取ろうとする槙生(新垣結衣)は、少女の正面をまっすぐに見つめ、低くドスの効いた声で言葉=フレーズを放つ。「わたしは、決してあなたを踏みにじらない」。カメラ目線でまっすぐにフレームに収められる槙生の宣言。少女は目の前の大人が放つ言葉、声のトーン、言葉の色をキャッチする。朝は槙生のフレーズを全身で浴びたときの空気を決して忘れないだろう。フレーズは“エコー”として朝の人生に響き続ける。たとえそのときは槙生のフレーズの意味が分からなかったとしても。新垣結衣は槙生のフレーズに音楽のような魂、響きを宿している。小説家の槙生にとってそれは「死ぬ気で、殺す気で」書かれた言葉なのだろう。腹の底から振り絞るように放たれたその声は、ポップミュージックが持っている魔法のフレーズ、エコーのように、朝のこれからの人生における様々な局面で浮かんでは消えていく。


 瀬田なつきはフラッシュバックを用いずに、原作のエッセンスを正確に抽出していく。ここには画面や言葉をフレーミングしていく“映画のエコー”だけが信じられている。『違国日記』という映画において、フレーズのエコーはフレームのエコーなのだ。





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