興行的惨敗から評価へ
そんな本作を高く評価したのは、フランスの批評家であり「カイエ・デュ・シネマ」初代編集長のアンドレ・バザンだった。彼は、フランソワ・トリュフォーやジャン=リュック・ゴダール、そして映画運動「ヌーヴェルヴァーグ」などへの影響力が大きい人物であり、その評価はいまの映画批評における一つの軸とされている。オーソン・ウェルズや本作は、この評価を得たことで権威的な地位を手にすることとなり、それが現在の評価の礎となったともいえる。
そのアンドレ・バザンによると、フランスの批評家、映画愛好者の間で、ニューヨークで「ワンダーボーイ(時代の寵児)」として喧伝されていたというウェルズの『市民ケーン』は、鳴り物入りで迎え入れられたという。しかし同時に、「壮大な“ハッタリ”の煽動者」という非難を受けたとも語っている。つまり本作には重要なテーマは存在せず、インテリを惹きつけるための張りぼてに過ぎないという意見があったのである。
果たして『市民ケーン』は、単なるインテリのためのハッタリだったのだろうか。もちろん、そんなことはない。ウェルズに世間の話題を集めるような山師的な側面があったのは否定しないが、本作には人間と社会との関係性をめぐる普遍的な課題が描かれているのである。
『市民ケーン』(c)Photofest / Getty Images
本作のラストで明かされる「薔薇の蕾」の正体が何なのかは、ここでは言及しないが、それはケーンという人物の子ども時代を指し示すものであった。雪の降るなか、ケーン少年がソリで遊んでいた描写を思い出してほしい。そこでは彼は、ソリで滑るという楽しみのために、自分の脚で斜面を登っていた。登ることと滑走すること、努力と楽しみという健全なサイクルのなかで、彼は充実した時間を楽しんでいたのである。
しかしその直後、彼は親元から引き離され、後に莫大な額の財産を相続することとなる。若くして巨額の富を得たケーンの境遇は、あたかも自分の脚で登ることなしに、ゲレンデの頂上まで運ばれたようなものなのだ。そこからは、滑走する楽しみだけの人生が約束されたのである。
そんな僥倖のなかで、ケーンは巨額の赤字を出したとしても新聞社を発展させることに尽力しようとする。なぜ何の不自由もないのに、わざわざ働こうとするのか。それはやはり、自分の脚で人生を充実させたいと考えたからではないか。しかし結局、彼は理想を失い、高額な美術品を収集するだけの、孤独でひたすらな滑走へと戻ることとなる。