90年代の高揚と傷跡を包み込んだ悲喜劇
物語はハンディカムで撮られたとおぼしきビデオ映像から始まる。部屋の白壁に映し出されるのは、ジョージアがソ連邦から独立する1991年ごろ、芸術家の若者たちが半地下の部屋に集まり、満面の笑顔で自由を謳歌する生き生きとした姿だ。
だがそこから待ち受けていたのは苦難の時代でもあった。次の瞬間、場面は一転して闇に包まれ、90年代に多くの犠牲者を出した政治的混乱や内戦、クーデター、アブハジア紛争の生々しい様子がモノクロームで映し出される。ちなみにこの映像を撮影した女性写真家ナタは、本作のいわば「見届け人」としての視座を与えられた女性。彼女はこの混迷の90年代に最愛の夫を失うという悲劇を経験した人でもある。
ならば、本作はどっぷりと哀しみに暮れた物語かというと、決してそうではない。メインとなるのは、27年後。才能はあるがお金がないアウトサイダーたちが自ずと集まる半地下はまだ存続しており、すっかり白髪まじりの中年となった”かつての若者たち”が、今もなお集いあって生きている。ちなみに社会的混迷の影響をモロに受けた彼らは”失われた世代”と呼ばれているそうだ。
『蝶の渡り』©STUDIO-99
おそらくこの場所は、昔から芸術家のサロン的場所であり、魂の防波堤であり続けてきたのだろう。ただし、個々が抱える事情は様々。芸術仕事で細々と食いつないでいる者もいれば、生きるためにこの場所を去らねばならなかった者もいる。そしてもう一度、この場所へ戻ってくる者も…。
本作を端的に表すなら、才能はあるが社会や時代に必要とされていない中年芸術家たちが、半地下の一室で織りなすヒューマンドラマといったところか。ドタバタしたコメディでありながら、大人の恋愛が絡んだメロドラマ的な側面も併せ持つ。八割がたを楽天的な明るさが占め、残りの二割には言い知れぬ詩的なノスタルジーや切なさが舞う。
「悲喜劇」といえば確かにその通りなのだが、これまで味わったどの国の映画とも少し異なる香り、手触り、郷愁が印象的だ。「これぞジョージア映画」と胸を張って言えるほど私はこの国について詳しくないのだが、しかしこれ一本で同国に生きる主人公の心情にどっぷりと触れられることだけは確かだ。