2018.08.23
クライマックスの長回しと、奇跡の血糊
そして、伝説となったクライマックスの長回し(379秒)にも触れねばなるまい。
「Vulture」に掲載された記事*によると、戦場と化した難民収容エリアで攻防が繰り広げられる、この場面の撮影には14日間というスケジュールが与えられていた。そのうち、準備に12日かかり、13日目の午後になって初めてカメラを回し始めたものの、途中でキュアロンがカットをかけて終了。一度流れを止めると現場を元の状態に回復するのに5時間かかるので、その日は再び撮影することが叶わなかったという。
そして運命の14日目。つまりこのシーンの最終日。午前中にスタートした撮影では、カメラ・オペレーターが途中でつまずき、カメラを落とすというハプニングが。そこから回復にまたも5時間かかり、午後になってラスト・チャンスの一回が、全スタッフが固唾を飲んで見守る中、ついに幕を開けた。
『トゥモロー・ワールド』© Photofest / Getty Images
途中までは順調に進んでいるかに見えた。が、銃撃から逃げ惑う主人公セオが、いざバスの中に逃げ込むくだりで、またもやハプニングが勃発。血糊の仕掛けが暴発して、カメラのレンズに赤い染みが付着してしまったのだ。その瞬間、キュアロンは「カット!」と確かに叫んだそうだが、運がいいのか悪いのか、その声は銃撃や爆音にかき消されて周囲に聞こえず、カメラは回りっぱなし、撮影続行の形となった。
血糊の付いた映像なんて使い物にならないと考えたキュアロンに対し、長年の友人でもある撮影監督のエマニュエル・ルベツキは「バカ!これは奇跡だよ!」と返したという。この言葉にハッとさせられたのか、結果的にこのテイクはそのまま続行となり、見事に本編でも採用。カメラの血糊はまるで本当にその場にいるかのような臨場感を観客にもたらす最上の要素となったのである。
ちなみに、この血糊、長回しシーンのラストまで付着したままだったかというと、決してそうではない。主人公が屋内に入って天井から光が射し込んでくるあたりでスーッと魔法のように消えていく。とすると、この手前のどこかで映像が巧みに切り替わっていたと考えるのが順当なところ。そういった着眼でもう一度本編を見直してみると、主人公が屋外から屋内へ飛び込んでいくあたりで画面が0コンマ数秒だけ真っ暗になる箇所が見受けられた。おそらくここで血糊の付いた映像は他のものへと切り替わり、その移行部分を曖昧にするためにあえてCGの血糊が足され、その後の光が射し込むシーンで違和感なく除去されていったのだろう(あくまで筆者の推測でしかないが)。
この379秒の長回しには他にも幾つかの切り替えポイントが用意されているはず。これらを見つけ出そうと何十回鑑賞しても一向にその切れ目は謎のままだが、それでもなお、観るたびにこの映画に飽きるどころか、ますます陶酔していく自分がいる。全ては、キュアロンやルベツキを始めとする作り手たちが一切の妥協を許さずして描いた“状況”だからこそ。その高い志の前では「本当に長回しかどうか」など、もはや取るに足らないことのように思えてくる。
これほど徹底して作り込んだ『トゥモロー・ワールド』だが、制作費7,600万ドルに対し、公開当時の世界興収は7,000万ドル止まり。劇場興収だけで考えれば赤字に終わったことになる。そうなると次作が撮りにくくなってしまうのが世の常。しかしその後、完成までに7年かかったとはいえ、キュアロンが『ゼロ・グラビティ』(13)で第一線に返り咲くことができたのは、映画界にこの『トゥモロー・ワールド』の真価に心を寄せ、なおかつキュアロンのさらなる可能性を信じてやまない人が、多数存在したからに違いない。
そんな彼がこの2018年、5年ぶりの新作”Roma”を解き放つ。いったいどのような作品に仕上がっているのか、そしてどれほど濃厚で目の覚めるような状況が描かれているのか、今から本当に楽しみでならない。
*参照: http://www.vulture.com/2016/12/children-of-men-alfonso-cuaron-c-v-r.html
1977年、長崎出身。3歳の頃、父親と『スーパーマンⅡ』を観たのをきっかけに映画の魅力に取り憑かれる。明治大学を卒業後、映画放送専門チャンネル勤務を経て、映画ライターへ転身。現在、映画.com、EYESCREAM、リアルサウンド映画部などで執筆する他、マスコミ用プレスや劇場用プログラムへの寄稿も行っている。
トゥモロー・ワールド Blu-ray
¥3,800(本体)+税 発売中
発売元:東宝東和(株)/販売元:ポニーキャニオン
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※2018年8月記事掲載時の情報です。