
© 2024 CG Cinéma / Scala Films / Arte France Cinéma / Andergraun Films / Rosa Filmes
『ミゼリコルディア』アラン・ギロディの描く暗闇の奥ゆき、キノコの下には死体が埋まっている
視線の矢、欲動の矢
「欲望が永遠に解決されないまま残ることに興味があります。そしてもう一つ。何よりも、それはとても愚かなことであり、またとても現実的なことでもあります。」(アラン・ギロディ)*
『ミゼリコルディア』にはジャン=ピエールの未亡人となったマルティーヌ(カトリーヌ・フロ)の家のテーブルを囲むシーンが多く描かれている。『湖の見知らぬ男』のヌーディストビーチという舞台が、自分好みの男性を見定める欲望の超原始的な“ハッテン場”だったのと同じように、本作においてテーブルを囲む席は“ハッテン場”のように機能している。
あきらかにマルティーヌはジェレミーのことを気に入っている。マルティーヌにはジェレミーに対する、自分でも名付けられない愛情を持っている。しかし大人の品格を備えた女性であるマルティーヌは、おそらくジェレミーへの欲情を愚かな感情と感じているのであろう。マルティーヌは自分の感情を隠し続ける。しかし眠れないジェレミーの隣に寄り添ってあげるマルティーヌは母親のようでもある。翌朝のジェレミーの寝顔が本当に子供のような顔をしていることに驚かされる。マルティーヌの息子ヴァンサン(ジャン=バティスト・デュラン)は、ジェレミーが自分の母親のことを性的に狙っていると思い込んでいる。ヴァンサンはジェレミーを敵視する。そしてジェレミーへの欲情を剥き出しにする神父(ジャック・ドゥヴレイ)の捕食者のような視線。
『ミゼリコルディア』© 2024 CG Cinéma / Scala Films / Arte France Cinéma / Andergraun Films / Rosa Filmes
アラン・ギロディはこれまでの作品で敢えて避けてきた、人物の切り返しショットという単純な映画技法によって、“欲情の視線”を描いている。誰が誰にどのような視線=欲情を向けているかという図が、この映画では緻密なまでに設計されている。そして単純な映画技法の中に凄まじい欲望の強度が宿っている。登場人物が何も明かさないときに、欲望が渦巻いている。無意識の視線の矢、鋭利な欲動の矢といえばよいだろうか。アラン・ギロディは欲望そのものをフレーミングしている。同時にそれは機会均等のエロティシズムともいえる。『ミゼリコルディア』という映画では、登場人物の誰もが欲望する権利を持っている。それは神父との告解シーンで喜劇的にスパークする。
神父はジェレミーを強引に告解の聞き手側の部屋に閉じ込める。神父が告解するのである。「難しくはない、君ならできる」と、とんでもなく軽薄な言葉を吐く神父は、ジェレミーに欲情している。神父の声の粗さが暴力的なまでに強い欲情を感じさせる。アラン・ギロディは、このシーンをフェリックス・キシルとジャック・ドゥヴレイのオーディションに使ったという。その理由は納得できる。この告解のシーンには『ミゼリコルディア』という映画のエッセンスが高濃度で凝縮されているからだ。展開の予想のつかなさ、バカバカしさ、侵犯、欲望のエネルギー、向けられる視線の強さ、それでも隠される欲情の淫靡さ、切実さ、そして愚かさ。