「私」から「私たち」への置き換え
『トレンケ・ラウケン』を見ながらハッとさせられたところがあった。それは主人公が図書館で見つけた”ある本”の中で、「私」という言葉が消され「私たち」へと修正されていることに気づく場面である。
実はこういった描写はラウラ・シタレラ監督作『詩人たちはフアナ・ビニョッシに会いに行く』(19)の中でも、亡き詩人をめぐる言及として印象的に登場する。
この言葉はもしかすると、上記の”想像力の連鎖作用”とも大いに関わりがあるのかもしれない。たとえば、主人公ラウラが誰かに思いを馳せ、心を重ねるとき、そこでは単数だった「私」という存在が自ずと「私たち」へと変換されゆく力学が生じるのではないか。
ここには”女性どうし”という繋がりによってもたらされる共感意識も大いに含まれるのだろう。だがそういうジェンダー的なものを抜きにしても、たとえば映画を愛してやまない人、活字媒体を愛してやまない人にとって、作品に浸るにつれ「私」が「私たち」になっていく心理過程というものは、決して見知らぬ感覚ではないはずだ。
『トレンケ・ラウケン』
忽然と姿を消す女性たち
主人公ラウラも失踪した人ならば、彼女がのめり込むラブストーリーの主体であるカルメンという女性も理由が明かされぬまま忽然と姿を消す。そして、構成がガラリと変わってSF幻想譚の色調を見せるPart2でも似たような流れは繰り返される。謎解きのカタルシスは存在しない。しかし、ここでもやはり「私」が「私たち」に置き変わっていくことが原動力を生む。
もしも、各々のエピソードが結末まで走り切ってしまうなら、そこで話の扉が閉じ、連鎖は終わってしまうだろう。本作の結末を曖昧にしているからこそ、各々の話は扉が開けっぱなしとなり、誰もが謎を謎のまま自由に受け止め、受け取った人の中でさらに進化が続いていく。
そう考えると、おそらく女性達は自発的に失踪しているのではないのだろう。むしろ主語が「私たち」へと変移することで、自ずと「私」という単数のくくりは溶け去るのかもしれない。それは決して消滅ではない。その人が生きた証は「私たち」の中で、永遠に生き続けるのだから。
なぜ我々は『トレンケ・ラウケン』に惹かれるのか。それはラウラが本編中そうであったように、観客もまた、この黄昏時の穏やかで心地の良い風に吹かれながら、とりわけ主人公と共鳴し「私たち」の一部へと吸収されていくからなのだろう。トレンケ・ラウケン。丸い湖。それはさながら閉じない弧を描き続けるイマジネーションの縮図のようだ。
かくもラウラ・シタレラ監督の創造性はおおらかであり、唯一無二。今回の『トレンケ・ラウケン』公開に併せた特集上映でかかる『オステンデ』『詩人たちはフアナ・ビニョッシに会いに行く』『ドッグ・レディ』(15)を含めて、彼女が織りなす濃密な作品世界にどっぷりと浸かってみてはいかがだろうか。
1977年、長崎出身。3歳の頃、父親と『スーパーマンII』を観たのをきっかけに映画の魅力に取り憑かれる。明治大学を卒業後、映画放送専門チャンネル勤務を経て、映画ライターへ転身。現在、映画.com、EYESCREAM、リアルサウンド映画部などで執筆する他、マスコミ用プレスや劇場用プログラムへの寄稿も行っている。
『トレンケ・ラウケン』を今すぐ予約する↓
『トレンケ・ラウケン』
配給:トーデスフィルム、ユーロスペース
ユーロスペース、下高井戸シネマほか全国順次ロードショー中
「ラウラ・シタレラ監督特集 響きあう秘密」
ユーロスペース、下高井戸シネマほか全国順次開催中