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『8人の女たち』フランソワ・オゾンと豪華スターが紡いだ、50年代美意識とマイノリティ

(c)Photofest / Getty Images

『8人の女たち』フランソワ・オゾンと豪華スターが紡いだ、50年代美意識とマイノリティ

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演出に取り入れられた「キャンプ」



 この場合の「キャンプ」とは、アウトドアでテントを張ってマシュマロを焼くこととは関係がない。かつてアメリカの作家、批評家のスーザン・ソンタグが生み出した言葉だ。著書のなかで彼女は「キャンプ」のことを、「不自然なもの、人工的なもの、誇張されたもの」に惹きつけられる“感受性”であると定義し、それは同時に一種の愛情であり、やさしい感情なのだと説明している。


 一見、とりとめのない言葉のようであるが、簡単にいえば、洗練されていない滑稽なものに魅力を感じて、親しみを持って楽しむ感覚のことである。ソンタグは、この種の笑いが、しばしば性的少数者によって使われてきたものだと語る。例えば、ゲイカルチャーのパフォーマーとしての「ドラァグクイーン」は、わざとらしいくらい過剰にゴージャスな女装をして、性的なフェイク、パロディとしての要素を楽しんでいる。


 ゲイカルチャーにおけるこのような試みは、同性愛者に対する社会的な差別への積極的な抗議の意味を持つと同時に、自らのアイデンティティを肯定し居場所を作ろうとする行為だともいえる。それは、たとえば日本の芸能界で、女性性を取り入れたジェンダー表現を用いたスタイルのタレントたちが一定の支持を得ており、しばしばユーモアや親しみをともったかたちで受け入れられてきた事実に通じる部分がある。そうした表現がときにステレオタイプを助長するリスクもある点には留意が必要だが、ここでいう「キャンプ」は、あくまで当事者による自己表現としてのユーモアであり、偏見や暴力にさらされるような環境で生き抜くためのマイノリティの自衛であり、戦略や文化的な知恵でもあるのだと考えられる。



『8人の女たち』(c)Photofest / Getty Images


 ゲイであることを明らかにしているフランソワ・オゾン監督は、当然こういったカルチャーへの関心が高いはずだ。本作では、フィルミーヌ・リシャール演じる同性愛者の心理的葛藤や、はじめは同性愛を嫌悪していたドヌーヴ演じる登場人物が、ファニー・アルダン演じる人物と拳銃を奪い合って揉み合っているうちに、なぜかそのままラブシーンへと突入してしまうという、まさに「キャンプ」そのものといえる場面がある。


 同性愛に偏見を持つ人物が自分のなかの同性愛的要素を発見するといった、本作の皮肉な描写は、同性愛者である監督にとって、“性的指向とはグラデーションのようにはっきりした区別がなく、多くの人々が同性愛的傾向を持つ場合がある”ということを示す意味で、とくに重要なものであったはずだ。こういった考えが広まれば、偏見は緩和されていくだろう。監督はそれをそのままシリアスなメッセージとしてのみ描くのでなく、滑稽さをも含めて提出した。それが奏功して、同性愛者への偏見が現在よりも強かった2002年当時の社会において、このシーンが広く受け入れられたということである。


 もちろん、滑稽さが含まれていなければ、その種の表現が受け入れられにくいといった状況自体に問題があることは事実であり、2025年現在の感覚から見れば、やや問題ある描写だと映るかもしれない。しかし、いまでも性的マイノリティへの社会的な弾圧が存在することを思えば、このメッセージを伝えるためには、受け入れやすいかたちでそれを提供することが、当時必要だったのだといえるのではないだろうか。そしてそれが「キャンプ」であるからこそ、観客はこれらのシーンを“愛情を持って”見つめることが求められるのだ。




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