生と死の中間的存在から、理性と狂気の中間的存在へ
夥しい死が刻印された戦争映画でありながら、市川崑はその死を決してドラマティックには描かない。道端に空き缶が転がっているように死体があり、太陽が東から上って西に沈むように死が日常的に訪れる。ゾンビのようにのろのろと兵の列が歩みを進めていくと、米軍戦闘機の気配を感じて腹ばいになり、雨あられと銃弾が降り注いだあと、生き残った兵士たちが立ち上がってまたノロノロと歩いていく場面は、極めて象徴的だ。
そして次第に映画は、非現実的な雰囲気を帯びていく。水たまりに顔を埋めた死体を見て「俺たちもいまにこんなんになるのかな?」と兵がつぶやくと、死体と思われていた男が急にこちらを睨みつけて「何を」と呪いの言葉を吐き、また水たまりに顔を埋める。瀕死の兵士は、「地球が回っているんだよ。だから太陽が沈むんだよ」と、最後の啓示のように不可解な言葉をつぶやき、やおら泥だらけの土を食べ始める。田村が空を見上げ「何の鳥だろう」と問いかけると、その瀕死の兵士は「鳥ではない。蝿だ」と語り、突然あたり一面が蝿に覆われる。
目の前に起きていることは現実なのか、それとも白昼夢なのか。生きていることの実感が消え失せ、死のリアリティがゆっくりと溶解する。彼の認識は、客観的な現実から次第に乖離していく。生と死の中間的存在を司る田村は、ここにきて理性と狂気の中間的存在を司るようになる。印象的にインサートされる“野火”の光景は、彼自身の内面の狂気と外界の現実が混じり合った象徴だろう。
『野火』©KADOKAWA 1959
印象的なのは、田村が中盤で編上靴を脱ぎ、裸足になることだ。戦場では食料や弾薬と同様な貴重品であり、自身の身体を守る大切な道具を、自ら捨て去る。文明社会の象徴を失うことで、原始的な状態へと回帰し、人間としての理性や尊厳を失い、ただ「生きる」という本能のみで行動する、獣に近い存在になっていく。
『野火』という作品が我々に訴えかけるのは、極限状況下で人間がいかに自己を保ち続けるか、あるいは自己を失っていくかという、普遍的な問いだ。田村が表象するのは、人間が精神的な均衡を保てなくなるボーダーラインそのもの。だからこそ、彼は二つの世界を横断する者として現れる。その曖昧な存在は、戦争という異常な状況そのものが、現実と非現実、生と死、そして理性と狂気といったあらゆる境界を曖昧にするという、作品全体のテーマを象徴しているとも言える。
なお田村を演じた船越英二は、ほぼ2週間飲まず食わずで過ごして骨と皮ばかりの痩せこけた姿となり、無理がたたって撮影初日に倒れてしまったという。とてつもない役者根性だが(もちろん、それは褒められたものではないが)、彼もまた田村というキャラクターに狂気を見出したのかもしれない。