「原作にある神の問題はわざと除く」
「もし、彼がキリストの変身であるならば――もし彼が真に、私一人のために、この比島の山野まで遣わされたのであるならば――神に栄えあれ」(*4)
大岡昇平の原作小説は、このような一節で閉じられる。田村は飢餓、疲労、絶望のなかで人間性を失い、狂気との境界を彷徨うが、その極限状態で見出した神に最後の望みを託している。もちろん「彼」が実際に何であったかは読者に委ねられるが、それがキリストの変身であると仮定することで、田村は自身の存在に意味を与えようとする。自己の罪(カニバリズム)に対する贖罪意識や、単独で生き残ったことへの罪悪感を、神が救済してくれることを信じて。
だが市川崑は創作ノートで、「原作にある神の問題はわざと除く」とはっきり明言している(*5)。生と死の狭間、理性と狂気の狭間を描きつつも、“神”について言及することは極力回避しているのだ。原作者の大岡昇平からは「だいぶ小説とは違うねえ」と嫌味を言われたらしいが(*6)、おそらくこの「神の問題」をどう扱うかが、映画と小説の最大の改変ポイントだったといえるだろう。
生粋のビジュアリストである市川崑は、神=救済を、直接的な言葉ではなく、映像的な隠喩として忍ばせていく。瀕死の兵士は両手の指を交互に組んで祈りを捧げる。永松を撃ち殺した田村が銃を放り捨てると、自分の影とクロスして十字架が浮かび上がる。銃弾が飛び交うなか田村は村に向かって歩いていくが、そのときに両手を挙げているポーズは、キリスト教では神への祈りや賛美、祝福を求める行為として解釈される。
『野火』©KADOKAWA 1959
田村が川べりから発見する教会の十字架が、雲に届こうかというくらいに異様な高さなのは(まるで『ロード・オブ・ザ・リング』に登場する冥王サウロンの目のようだ)、あくまで象徴主義的に描こうとした表れだろう。神の気配を感じさせつつ、決してそれを現実のものとして前景化させることはしない。そのバランス感覚に、市川崑という監督のモダニズム精神が感じられる。
本作は、第33回キネマ旬報ベスト・テンで日本映画第2位に輝いたほか、ロカルノ国際映画祭グランプリ、ハンブルグ映画祭優秀映画賞、バンクーバー国際映画祭カナダ映画協会賞を受賞するなど、国内外で高い評価を得た。モノクロ映像の強いコントラストは、レイテ島の地獄のような光景を際立たせ、兵士たちの疲弊した姿や、絶望的な状況をより生々しく描き出す。戦争の狂気を、そして主人公の心理を視覚的にアプローチした市川崑版『野火』は、あまたの反戦映画のなかでも特異な位置を占めている。
(*1)(*6)「完本 市川崑の映画たち」(洋泉社)
(*2)「大アンケートによる日本映画ベスト150」(文藝春秋)
(*3)(*5)「成城町271番地 ある映画作家のたわごと」(ディスカヴァー・トゥエンティワン)
(*4)「野火」(KADOKAWA)
文:竹島ルイ
映画・音楽・TVを主戦場とする、ポップカルチャー系ライター。WEBマガジン「POP MASTER」(http://popmaster.jp/)主宰。
終戦80年企画『野火』4K
全国順次公開中
配給:KADOKAWA
©KADOKAWA 1959