1977年秋、映画館は400年前の祟りに見舞われた。流行語になった「たたりじゃ!」で知られる横溝正史原作の怪奇ミステリー大作『八つ墓村』へ観客が殺到したのだ。
生まれ故郷の八つ墓村へ帰郷し、事件に巻き込まれる青年・寺田辰弥役を萩原健一が演じ、当時すでに『男はつらいよ』シリーズが19本を数えていた渥美清が探偵・金田一耕助に扮した。『砂の器』(74)の野村芳太郎(監督)×橋本忍(脚本)コンビが手がけた本作は、「たたりじゃ!」のフレーズだけでなく、山崎努が恐ろしい形相で猟銃と日本刀を手に村人を大量殺戮する場面が強烈な印象を残し、リアルタイムで体験していない世代にまで影響を残すミステリ――ならぬ、オカルト・ホラー映画となった。
『八つ墓村』が公開された1977年は、日本映画が空前の活況を呈した年でもある。前年からスタートした角川映画が第2弾として放った『人間の証明』(77)や、脚本家・橋本忍が設立した橋本プロダクションによる『八甲田山』(77)といった独立プロダクション主導で作られた大作映画を前に、大手映画会社も続々と1本立ての大作路線へ参入していった時期にあたった。また、個人映画作家からCM監督になった大林宣彦が、東宝に乗り込み、初の商業映画『HOUSE』(77)を撮った年としても記憶される。
そうした日本映画の転換点のなかで、『八つ墓村』も数ある横溝映画のなかで例外的な大作映画として製作されることになった。しかし、紆余曲折を経た撮影は2年がかりとなり、野村と橋本にとっては、彼らが共同でプロデューサーを務めた『八甲田山』と同時並行で挑む難プロジェクトとなった。実際、本作の企画自体は、角川映画第1作の『犬神家の一族』(76)よりも遥か以前から準備されていたのだから、横溝映画としては空前のスケールと時間をかけて製作されたことになる。そこに観客も敏感に反応し、公開のタイミングは、同じ横溝原作を映画化した市川崑監督×石坂浩二主演の『犬神家の一族』、『悪魔の手毬唄』(77)、『獄門島』(77)の後塵を拝したものの、横溝映画最大のヒットを記録することになった(配給収入19億8,600万円)。
巨大プロジェクトとなった映画『八つ墓村』は、なぜ企画され、どのように撮影されたのだろうか。それを知ることは、同時代の横溝ブームや角川映画誕生の瞬間を目にすることにもなる。そして、今もなお繰り返しリメイクされ続ける理由も見えてくるはずだ。〈『八つ墓村』の時代〉に何が起きていたのかを前・中・後編の3編にわたって追体験してみたい。まずは前編から。
Index
- 『八つ墓村』が映し出した風景
- 『八つ墓村』の映像史
- 横溝映画、空白の14年
- 刑事コロンボvs金田一耕助
- 橋本プロダクションと『砂の器』
- “墓参り映画”として作られた『八つ墓村』
- 1975年版『八つ墓村』の全貌
- 『本陣殺人事件』vs『八つ墓村』
- 横溝原作をめぐる争奪戦
- 角川春樹と『八つ墓村』
- 角川映画版『八つ墓村』はなぜ実現しなかったのか
- 『犬神家の一族』が映画化された理由
- 角川映画、登場
『八つ墓村』が映し出した風景
松竹製作の1977年版『八つ墓村』は、ミステリー映画と呼ぶのが憚られるほど、謎解きよりも400年前の怨念話へと傾斜してしまう歪な映画である。原作の昭和20年代という時代設定を、現代に変更させたことも含め、原作ファンや、ミステリーファンから評判が悪いのもうなずける。映画としても、同時期に市川崑監督による、金田一を石坂浩二が演じたシリーズの質の高さに較べると、見劣りするのは明らかだろう。
と、言いつつも、数々の欠点を承知した上で、筆者などは名画座で上映されると、つい観に行ってしまう。また、VHS、LD、DVD、Blu-rayとメディアが変わるたびに買い替えては、年に一度は観てしまう。その理由は、異様な迫力で迫ってくる山崎努の村人大量虐殺シーンを筆頭に、たっぷり時間をかけて撮られた場面の数々と、日本全国で行われたロケーションによって丁寧に映し出された風景が、繰り返しの再見に耐えるからでもある。
原作では、ラジオの「尋ね人」で自分を探す者がいることを職場の上司から教えられ、神戸から岡山と鳥取の県境に位置する山村の八つ墓村へ帰ることになる辰弥だが、1977年版の映画では東京の羽田空港の国際線発着誘導員として働く現代的な青年に設定されている。新聞の「尋ね人」欄に自分の名があることを職場の上司に教えられた辰弥(萩原健一)は、新幹線で新大阪駅に降り立ち、北浜にある弁護士事務所へ向かう。辰弥は母方の祖父(加藤嘉)と対面するが、直後に祖父は謎の死を遂げる。代理で迎えに来た森美也子(小川真由美)の案内で、辰弥は生まれ故郷である岡山県の八つ墓村へ向かうことになる。新幹線の岡山駅から伯備線に乗り換え、中国山系の山々を横目に列車はひた走り、備中神代駅で降車。そこからは車で植林が鬱蒼と繁るいくつもの山々を越えて進んでいく。やがて峠から目にすることになる眼下の八つ墓村は、原作に書かれた「八つ墓村――それはまるで摺鉢の底のような地点にあった」というイメージ通りの村がシネマスコープの画面いっぱいに映し出される。
この旅路が丁寧に描かれることで、観客は主人公と共に遠路はるばる八つ墓村へ向かっているような感覚に陥る。名キャメラマン川又昂は、どこにでもあるような田舎の風景を際立たせ、飽きさせない。
映画の後半で、金田一が近畿圏の各地で実地調査を行う場面も忘れがたい。芥川也寸志作曲の『八つ墓村の系譜を追って』が流れるなか、早朝の和歌山県海南市極楽寺に始まり、大阪の天王寺駅で乗り換えた金田一は滋賀に向かい、石光山の石山寺へ。夕方に京都の東本願寺にたどり着き、翌日は早朝から丹波篠山へ。神姫バスに揺られて田園を走り、兵庫県氷上郡氷上町にある達身寺へ向かう。台詞もないこの5分近いシークエンスがかきたてる旅情感は、数ある横溝映画の中でも本作にしか存在しないものだ。
本作と同じ年に公開された市川崑監督の傑作『悪魔の手毬唄』を例にとると、金田一は、いきなり岡山県の鬼首村に現れ(撮影は山梨県)、それも自転車で疾走して登場するのだから、旅情感など欠片もない。それに市川作品を特徴づける編集は、短いインサートカットが多用されるだけに、風景をじっくり見せることはない。ロングショットで山道を登る金田一が映し出されても、直ちに全く別の空間で撮影された短いショットが挿入されることで市川作品独自の躍動を生み出すのだ。
映画評論家の山根貞男は『悪魔の手毬唄』の公開当時、「ショットは寸断され、距離感覚はバラバラになって、距離のもつ有機性は奪われてしまう。距離は無機質になり、そうした距離でもって描かれる人物像も無機質なものとなる。これこそが市川崑の方法なのだ」(『日本映画時評集成1976ー1989』)と批判した。
その意見に同調するかは別としても、同じ年に作られた同じ原作者による金田一もの2本は、似通うどころか風景をどう切り取るかという視点だけを取っても、こうまで違いが際立っていることがわかる。逆に言えば、市川崑の金田一シリーズと遠く離れているがゆえに、筆者は松竹版『八つ墓村』に惹かれるのかもしれない。