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『八つ墓村』(77年版)横溝ブームに角川映画、時代の渦中で何が起きたのか?【そのとき映画は誕生した Vol.3 前編】

※資料(新聞広告):筆者蔵

『八つ墓村』(77年版)横溝ブームに角川映画、時代の渦中で何が起きたのか?【そのとき映画は誕生した Vol.3 前編】

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『本陣殺人事件』vs『八つ墓村』



 監督と脚本家が決まっても、原作者が映画化の許諾を与えなければ、具体化させることはできない。事前の根回しのために成城の横溝邸を訪れた松竹企画室の小林久三によれば、「『八つ墓村』の映画化の話をすると、氏は相好をくずしてよろこばれた」(『雨の日の動物園』)という。そして1975年4月2日、野村芳太郎監督、脚本家の鈴木尚之、松竹の杉崎重美プロデューサー、企画室の小林が連れ立って横溝邸を訪問し、正式に『八つ墓村』の映画化を申し入れた。そのときの様子を野村は次のように証言する。


 「金田一耕助になる人は誰がいゝと思いますかと横溝さんと話したんです、横溝さんは、私のイメージからすれば渥美清ですと」(『黒澤明 研究会誌』No.8)


 一方の横溝は、このときの発言をこう記憶している。


 「松竹から申し込みがあったときに、金田一耕助、誰やるのってきたら、まだ考えてませんけど、まァ、結局二枚目になるでしょうといった。いや、それは困る、結局、探偵というのは狂言回しでしょう。主人公は別にいるんですワ。犯人か被害者かどちらか、それが二枚目になるでしょう。二枚目を二人出されちゃ困る。だから金田一、やっぱり汚れ役にしてほしい、お宅ならやっぱり渥美清だろうって、ぼく、そういったことがあるんですけどね」(『横溝正史読本』)


 横溝が松竹で金田一をやるなら、渥美清になるのではないかと考えたように、渥美自身も、これは自分の役と考えたようだ。1975年6月8日号の『週刊明星』では、こんな記事が出ている。


 「 “ぜひ私に”とモーレツな売り込みをはじめたのが渥美清。(中略)“寅さん”で大当たりをとった渥美だが、寅さん以外にこれといった決定打がないのが悩みのタネ。そこで金田一名探偵で新領域開拓と、獲得作戦にも一段と熱がこもってきた」


 なぜ、渥美が金田一役に色気を出したかは、渥美と交流を持つ作家の小林信彦が、「『コロンボ』が始まった頃、ああいう役を日本でやるんなら、あなたがやったらいいんじゃないかといわれているんだけどって、彼は言ってましたからね」(『横溝正史読本』)と証言している。金田一の復活に、刑事コロンボの影響が少なからずあることは前述したが、渥美にとっても、日本版コロンボ=金田一という認識があったとみて良いだろう。


 話が進みすぎたので、時間をもどそう。『八つ墓村』映画化については、横溝から了承が取れたが、この時点の野村の構想では、『八つ墓村』を手始めに、横溝作品を次々に映画化するつもりだった。そのため、『八つ墓村』だけでなく、『本陣殺人事件』『獄門島』『悪魔が来りて笛を吹く』等、複数作品の映画化権を松竹が取得する算段だった。野村によると、横溝にこう交渉したという。


 「僕は横溝さんの作品を全部下さいと、その代わり松竹でつぎつぎと映画化しますと(略)横溝さんはいきましょう、上げましょう、作品は全部野村さんにお渡しします。ただ昨日、約束したのが、“本陣殺人事件”でこの一本だけはATGに約束したので、これはよそでもやりますよ、それはかまいませんからその他の作品は全部下さい。そこから“八ツ墓村”は企画を始めたんです」(『黒澤明 研究会誌』No.8)


 そう、わずか1日違いでATG(日本アート・シアター・ギルド)が、『本陣殺人事件』の映画化権を獲得していたのだ。


 1961年に設立されたATGは、『尼僧ヨアンナ』(61)を皮切りに、それまで興行的には難しかったアート・フィルムを続々と輸入し、『去年マリエンバートで』(60)、『長距離ランナーの孤独』(62)、『かくも長き不在』(60)など、多数の名作を公開してきた。1968年には映画製作を開始し、『絞死刑』(68)、『初恋・地獄篇』(68)、『肉弾』(68)など、低予算ながら、大手映画会社では実現不可能な先鋭的な企画を次々に実現させ、日本映画史に名を刻んできた。


 しかし、1970年代半ばに差し掛かると、慢性的な赤字が経営をひっぱくし、路線変更を余儀なくされる。限定された観客のみに受ける芸術映画ではなく、娯楽映画――それもATG的な娯楽映画が求められた。そのなかで企画されたのが『本陣殺人事件』だった。金田一耕助が初めてスクリーンに登場した『三本指の男』と同じ原作だけに、片岡千恵蔵主演のスター映画の再映画化は、ATGの変貌を象徴することになった。もっとも、監督はそれまで個人映画作家として知られてきた高林陽一が商業映画に初進出するという、ATG的な人選ではあったが。


 そうした経緯があっただけに、ATGに先を越されて松竹が悔しがるのと同じく、ATG側も「あと一日遅れていたら、『本陣……』もとられていた」(『週刊現代』75年8月7日号)と、青ざめる事態となり、1975年は横溝原作をめぐる争奪戦の始まりを告げる年になった。


 ところで、誰が『本陣殺人事件』をATGで映画にしようと言い出したのだろうか。これには諸説がある。本作で金田一を演じた中尾彬は、自身が発案したと明かす。


 「宝塚の古本屋で横溝正史全集を見つけて、『八つ墓村』とかは知ってましたが、一応全部読んでみようと。それで読んだ中で『本陣殺人事件』がいいと思って、葛井欣士郎のところに持ち込んだわけです」(『映画秘宝』2014年9月号)


 葛井欣士郎とはATGのプロデューサーである。しかし、当の葛井は「その頃、紀伊國屋に行ったら横溝正史の文庫本が売れてるんです。しかも若い連中がみな横溝正史。これはちょっと面白いんじゃないかと思って、興味をもちました。(中略)まず原作を取りに走った方がいいと思って、講談社の人に紹介してもらって、成城の横溝さんのところへ行ったんです」(『遺言 アートシアター新宿文化』)と、自らが横溝に目をつけたと話す。


 一方、監督の高林陽一は、「葛井欣士郎氏にお目にかかる機会があり、その時、私がもしATGでやるならと意中を伝えたのが『本陣殺人事件』であった」(『魂のシネアスト 高林陽一の宇宙』)と、自らの発案だったと語る。


 三者三様に証言が食い違うが、それぞれがある時期に横溝へ目をつけ、一致を見たということだろうか。本作の撮影時、中尾は同じ横溝でも金田一の登場しない『蔵の中』を映画にしようと高林に持ちかけ、6年後に角川映画で実現することになったが、これなども映画化される頃には、中尾よりも高林が熱心になっていたが、両者が感覚を共有していたからこそ実現した企画だろう。


 なお、ATG版『本陣殺人事件』の時代設定は、原作の昭和12年から現代へと変更され、それに合わせて金田一は、ヒッピースタイルへと変更されたが、中尾によると、「あのコスチューム? あれは自分で考えたんです」(『週刊平凡』77年10月20日号)とのことである。もちろん、これも我こそが考案者なりと名乗る第三者が現れても不思議ではない。





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