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『八つ墓村』(77年版)横溝ブームに角川映画、時代の渦中で何が起きたのか?【そのとき映画は誕生した Vol.3 前編】

※資料(新聞広告):筆者蔵

『八つ墓村』(77年版)横溝ブームに角川映画、時代の渦中で何が起きたのか?【そのとき映画は誕生した Vol.3 前編】

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角川春樹と『八つ墓村』



 松竹製作の映画『八つ墓村』を語るには、角川春樹の存在を抜きにはできない。ここで話は、1970年12月下旬まで遡る。なぜなら、この時期に成城の横溝正史邸を春樹が訪問し、初めて対面したからである。角川書店創業者で、当時の同社社長である角川源義の長男にあたる春樹は、1970年12月1日付の社員名簿によれば、編集部所属となっており、この時点では一編集者にすぎない。


 その少し前、春樹の姉で、『ラーゲリより愛を込めて』(22)の原作者でもある歌人・作家の辺見じゅんが、『宝石』の元編集長・大坪直行と会った際、往年の探偵小説の話になり、横溝正史が話題に上がった。数日後、そのことを春樹に話すと、横溝に会いたいと言う。年末だったため、来年早々にと辺見が言うと、春樹は今年中だと言って譲らなかった。大坪の証言では、「“いまなら、横溝正史の作品はうけること間違いない”と思っていた私は、当時、角川春樹氏にもちかけ、作品リストを渡し、横溝先生を紹介したことがあった」(『横溝正史追憶集』)となっており、微妙な食い違いを見せるが、春樹が横溝に興味を抱いたのは確かである。


 かくして年の瀬も迫ったある日、冬の日差しが差し込む成城の横溝邸で、春樹は横溝と対面を果たす。たちまちのうちに『八つ墓村』を角川文庫へ入れる交渉が成立し、翌年4月26日の刊行にこぎつける。出版業界の年始は動きが鈍い。面会を年明けに設定していれば、早くとも、1月末か2月上旬にならなければ実現しなかっただろう。そこから編集作業に入っても、刊行は初夏になってしまう。当時28歳だった春樹の編集者としての勘が、素早い行動へと移らせたのである。


 こうして、『八つ墓村』(初版2万5千部)に始まり、角川文庫では1971年のうちに『悪魔の手毬唄』(初版2万部)、『獄門島』(初版2万部)を、翌年には『悪魔が来りて笛を吹く』(初版2万5千部)、『犬神家の一族』(初版1万5千部)、『三つ首塔』(初版3万部)を、翌々年には『夜歩く』(初版4万部)、『本陣殺人事件』(初版3万部)と、1970年代前半にかけて横溝の代表作を次々と文庫化していくことになる。『八つ墓村』は刊行から3か月後に2版目を1万5千部、その翌月には3版目を1万部と矢継ぎ早に増刷され、1971年だけで最終的に9万部が発行された。これが5年後の1976年12月末には、同作だけで総計118万部を記録したのだから、横溝ブームの凄まじさが見て取れる。


 春樹は、横溝と初対面した1970年より『雨に濡れた舗道』など外国映画の原作翻訳文庫を続々と手がけていたが、その前年に20世紀フォックス宣伝部の古澤利夫を訪ね、文庫の表紙を、映画のポスターと同じデザインにしたいと相談を持ちかけていた。それをきっかけに古澤は各洋画会社の宣伝スタッフを春樹に紹介していた。1971年に日本で公開された『ある愛の詩』の原作単行本『ラブ・ストーリィ』を春樹がベストセラーへ導き、同時に映画のプロモーションにも携わったのは、こうした下準備があったからである。そのなかで、〈映画×出版〉の可能性を春樹は見出すことになる。もっとも、『ある愛の詩』自体が、脚本が先行して存在し、映画の製作中にノベライズが執筆され、公開前に出版されてベストセラーになることで映画の大きな前宣伝になるという、角川映画のプロトタイプと呼ぶべきメディアミックスを行った作品だったが。


 さらに言えば、春樹の父・源義も、〈映画×出版〉のタイアップに対して敏感な出版人だった。1949年から刊行が始まった角川文庫は、その初期に『若草物語』『女相続人』『文化果つるところ』『華麗なるギャツビー』など映画の公開に合わせて文庫化した作品が並んでおり、春樹がやがて大々的に展開させたメディアミックスの原点に、父の存在を見ることは容易だろう。『角川源義の時代 角川書店をいかにして興したか』(角川書店)には、「各映画会社の試写会には率先して出席したし、企画段階での情報入手にも熱心だった。外国文学作品の映画化の話を聞くと、その飜訳権関係を調べさせたり、必要に応じてそのエージェントと交渉させた」と、源義の嗅覚を記しているが、まるで春樹について書かれているかのようだ。


 1975年、松竹が『八つ墓村』の映画化に動き始めたことが角川書店の専務に昇格していた春樹の耳に入る。出版と映画をより大規模に結びつけようとしていた矢先だっただけに、またとない機会の到来だった。しかし、外国映画の配給会社は別として、当時の春樹に松竹とのパイプはなかった。唯一の接点となったのが、松竹企画室に在籍し、角川書店が発行する雑誌『野性時代』の執筆者でもあった推理作家の小林久三だった。


 小林によると、1975年の秋、松竹本社に併設する喫茶店で、角川書店の編集者と小説の打ち合わせをしていると、うちの専務が今日お目にかかりたいと言っていると編集者から唐突に告げられて戸惑うことになる。なにせ乱歩賞を受賞した際、授賞式で一度だけ春樹と会ったことがあったものの、小林には、なぜ春樹が自分に会いに来るのか意図をはかりかねた。


 間もなく、喫茶店の前にオートバイが横付けされ、ジーンズ姿の春樹が降りてきた。33歳の青年は、意気軒昂に自身のプランを語り始めた。それは、松竹が映画化を進めている『八つ墓村』と、出版をジョイントさせたいというものだった。それも従来の映画会社と出版社による〈映画と原作小説〉の関係を遥かに超える大規模なものを考えているという。そのために自身も映画の宣伝に参加したいと言い、さらに製作費の一部を出資する用意もあるという。製作費の捻出に四苦八苦するのは、どの映画会社も同じである。小林は、一企画部員にすぎない自身の手に余ると判断し、松竹の首脳と近々に顔合わせの場を設けることを約した。


 後日、製作本部長室で、三嶋与四郎製作本部長、升本喜年企画部次長らと春樹の会見が実現した。春樹からは、『八つ墓村』の予告編に、原作の角川文庫を映すことなどが、このとき提案されたという。 また、宣伝プロデューサーとして加えてほしいという申し出も春樹からあったが、首脳陣は即答を避けた。





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