角川映画版『八つ墓村』はなぜ実現しなかったのか
当初の予定では、『八つ墓村』は1975年9月にクランクイン、同年11月公開の上映時間3時間におよぶ大作になることが予定されていた。金田一耕助役は渥美清が決定し、キャスト候補には小川真由美、田中絹代、島田陽子、岩下志麻の名が挙がっていた。原作と同じ昭和20年代が舞台となり、横溝正史も「袴をはいて、もじゃもじゃ髪をかきむしる原形のままの金田一を何としても渥美清にやってもらいたい」(『キネマ旬報』75年10月上旬号)とコメントするなど、初めて原作に忠実な横溝映画が実現するかと思われていた。
ところが、製作が遅延する事態が起きる。理由は複数あった。まずは、鈴木尚之による脚本の遅れである。野村芳太郎が、「鈴木氏のシナリオがいつまで経っても完成しない。そのうちに十一月ロードショーは決まりかけてくる。シナリオが出来もしないものが進む、といったわけのわからぬ状況」(『映画の匠 野村芳太郎』)と嘆くように、中身がないままタイトルが先行する事態になっていた。雑草が生い茂るなかに卒塔婆と墓のシルエットが浮かぶ『八つ墓村』のスピードポスター(速報用の簡易ポスター)もすでに作られ、そこには「怨霊の祟りか、血に狂う悪魔か!」というコピーと共に、監督・野村芳太郎、原作・横溝正史(角川文庫刊)、脚本・鈴木尚之、撮影・川又昂、音楽監督・芥川也寸志、製作・三嶋与四治と、メインスタッフがクレジットされていたが、実際にはまだ製作を開始する段階に達していなかったのだ。
もうひとつ問題があった。松竹社内の『八つ墓村』に対する温度差である。トップの城戸四郎会長は、この企画自体に反対の態度を見せ、さらに、1本立ての大作にするか、併映作品を付けた2本立てにするかでも上層部の意見は別れていた。業界紙『映画時報』の1975年9月号では、社長の大谷隆三が『八つ墓村』の公開延期について次のように語っている。
「『八ツ墓村』というのを今年のピークにしようと思っていたわけですけれども、大へんにこの脚本がむずかしいらしいんです。原作から脚色するのが――。脚本は鈴木尚之、野村芳太郎と組んでやっているわけですけれど、ちょっと遅れまして、これは来年上半期の最大のピークになると思うんです」
こうして、『八つ墓村』は1975年11月から、翌年へと公開が変更――それも上半期から下半期へと、公開スケジュールが目まぐるしく変わっていくことになる。それに振り回されたのが、提携を持ちかけていた角川春樹である。曰く、「ウチとしては映画と七五年十月後半の角川文庫『横溝正史フェア』を連動させようと思っているのに、松竹からは待てど暮らせど返事が来ない。待たせるばかりで、延々と時間が無駄になる」(『最後の角川春樹』)。映画会社からすれば、〈本屋の都合で映画が作れるか〉という心情だろうが、春樹にとって映画は、本を売るためという大義名分を抜きには語れない。1975年6月13日、横溝邸を訪問した春樹は、横溝にこう伝えていた。
「先生、そう出し惜しみをしないでドンドン作品をくださいよ。この秋までに二十五点を揃えて、五百万部を突破させ、十月の文庫祭りを“横溝正史フェア”でいきますから」(『週刊読書人』75年12月29日号)
横溝にそう啖呵を切った以上、『八つ墓村』の製作が延期になったからと、横溝フェアまで延期にするわけにはいかない。そこで、9月27日にATGで公開される『本陣殺人事件』に角川書店が宣伝協力費として50万円を出資することで、いささか小規模ながらも横溝フェアと映画の連動を実現させることになる。結果、『本陣殺人事件』はATG始まって以来の配給収入1億円を突破するヒットとなり、横溝フェアも10〜11月で250万部を売り、出版×映画のジョイントに大きな手応えを残すことになった。この成功によって春樹は自前で横溝映画を作ることを決意し、角川映画の出発になったと言われているが、実際は、『本陣殺人事件』の成功を受けて、松竹の大作『八つ墓村』との提携実現にいよいよ本腰を入れ、角川映画第1作として軌道に乗せようとしていた。
1975年12月4日、春樹は角川書店が映画製作へ進出することを公表する。具体的には、映画会社とタイアップを組んで資本参加し、角川書店のベストセラーを年2本映画化。春樹がプロデュース・PRを請け負うというもので、松竹と組む『八つ墓村』が第1作となり、東宝、ATGとも話が進められていると翌日の『報知新聞』が伝えている。春樹のコメントを引用しておこう。
「ウチとしては、松竹だけでなく、原作のカラーにあった映画会社と積極的にタイアップしていく方針です。いま、赤江瀑さんの『オイディプスの刃』や翻訳物など、何本かやりたい作品を持っています。今までの映画にない見せ場をつくり、セールス・ポイントをしぼってドーンと売り、映画も本もヒットさせたい」
このとき報道された〈角川書店の映画進出〉は、翌年からスタートする角川映画と若干異なり、映画会社とのタイアップを軸としている。つまり、製作費の何割かを角川書店が負担することで春樹が宣伝の陣頭指揮を執る権利を得るところに主眼があり、製作費の大半を出資する後年の角川映画のスタイルにはなっていない。したがって、映画会社の反応も、冷ややかなものである。前掲の『報知新聞』には松竹の脇田茂企画部長のコメントが載っているが、「横溝さんの『八つ墓村』は二月末、雪のシーンからクランクインの予定でいます。角川書店とはいま条件を煮つめている段階で、内容についてはまだ申し上げられません」とあるだけで、何とも素っ気ない。
結論から言えば、『八つ墓村』の角川と松竹の提携は実現にいたらなかった。〈条件を煮つめ〉たところ、両者の妥協点が見つからなかったのだ。最も大きな原因は、前述した公開スケジュールが二転三転することから、横溝フェアとの連動が取れないことにあった。その点について野村は、「角川との提携も考えたが、先方が早く完成したいとのことで、カネも時間もかけなければいい作品は出来ないよという橋本(忍)氏の意見に従って、提携話は流れた」(『映画時報』76年8月号)と説明する。橋本プロダクションで「カネも時間もかけ」た『砂の器』『八甲田山』を作ってきた野村からすれば、春樹の物言いは、粗製乱造に思えたのだろう。
一方、春樹の言い分は異なる。「松竹は最初に間接費を四億円要求してきた。あまりにも法外な金額だったから、こちらが怒って抗議したら二億円、さらに一億円にまで下がった。当時の映画界が、いかにどんぶり勘定だったかが、この一事からもわかろう」(『わが闘争 不良青年は世界を目指す』)と、映画会社への不信を露わにする。1977年4月7日の『報知新聞』は、角川と松竹双方の言い分を掲載している。
「製作費の一部を負担するが、そのかわりに会計監査に向こうの人を入れろ、秋に必ず上映してほしいと、松竹としてはとてものめる条件ではなかった」(松竹)
「投資する以上、製作費が戻るシステムを作ろうとしたまで。また秋に予定していた“横溝フェア”に合わせて上映してくれなければ、本を売るために映画を作るウチの方針と違い、映画作りの意味がなくなる」(角川)
老舗とベンチャー企業の対比そのものだが、後年、野村が明らかにしたところでは、「松竹では、『砂の器』のような歩合制がないので、むしろ角川をかませて話をつけよう、という考えもあり、話はそのほうへ進みかけたが、城戸四郎会長が反対した」(『映画の匠 野村芳太郎』)と、最終判断が松竹会長の城戸によってなされ、角川との提携が取り止めになった原因であることを明かしている。
城戸からの反対について、野村は『黒澤明研究会誌』(No.8)で、もう少し詳しく内情を明かしている。
「あの時、城戸さんというのは、素人が何をいうかと、つまり角川なんかの素人がプロデューサーをやるとかなんとか、そんなバカな事はいかんと喧嘩になっちゃった」
1921年に映画界へ足を踏み入れ、3年後には松竹蒲田撮影所長となった城戸は、松竹映画の礎を築いた、日本映画の祖となる人物である。映画界で半世紀を過ごし、この時期、会長職にあった城戸は、すでに一線を退く年齢に達していたが、1975年には三嶋与四郎製作本部長を解任し、後任人事が難航したため、一時的に製作本部長を代行している。81歳の高齢での就任となったが、『幸福の黄色いハンカチ』『八つ墓村』といった企画にことごとく反対し、退けた。
しかし、独裁体制にあった城戸の判断が角川映画を誕生させ、この後、春樹が松竹以外の大手映画会社と次々に組んで日本映画を席巻することになることを、城戸はまだ知らない。もっとも、角川と松竹の提携が合意に達していたとしても、トラブルが起きていたことは想像に難くない。実際、『八つ墓村』は1975年の秋どころか、翌々年の秋まで完成しなかったことを思えば、しびれを切らした春樹が、自前で横溝映画を作った方が早いと動いたのは正しかったと言わざるをえない。