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『八つ墓村』(77年版)横溝ブームに角川映画、時代の渦中で何が起きたのか?【そのとき映画は誕生した Vol.3 前編】

※資料(新聞広告):筆者蔵

『八つ墓村』(77年版)横溝ブームに角川映画、時代の渦中で何が起きたのか?【そのとき映画は誕生した Vol.3 前編】

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横溝原作をめぐる争奪戦



 『本陣殺人事件』の映画化権が、わずか1日違いでATG押さえられたものの、横溝は松竹に対して、それ以外の作品ならば譲渡可能と伝えたという。このとき、松竹が何本の映画化権を押さえたかは、当時の報道によっても開きがあり、正確なところは判然としない。野村の証言と同じく、「『本陣――』を除く全横溝作品の映画化権を松竹が獲得した」(『読売新聞』75年6月9日・夕刊)、「松竹は日本アートシアターが映画化した『本陣殺人事件』を除く横溝作品の映画化権を掌中に収めており、これを定期的に製作すれば、渥美(清)の新シリーズ誕生となる」(『日刊スポーツ』75年9月30日)という記事もあれば、「松竹では『八ツ墓村』『死神の矢』『夜歩く』『火の十字架』『幽霊座』などの原作を買い占め」(『週刊明星』75年6月8日号)、「松竹では10本をこえる横溝作品の映画化権を獲得しており、『八つ墓村』の成績次第ではいつでもシリーズ化する用意が出来ている」(『週刊明星』76年1月11日号)といった記述も見られる。


 通常の映画化契約は、2年を期限として結ばれることが多い。その期間内に映画化できなければ、再契約を行うか、権利を手放すことになる。1977年5月31日の横溝の日記には、松竹のプロデューサー、製作本部長の訪問を受け、「『八つ墓村』の製作が2年の期限を越えたことにつき諒解を求めてきた」(『真説 金田一耕助』)とあるところから、1975年の4月か5月に映画化契約を結んだことが推測できる。気になるのは、〈全横溝作品の映画化権を松竹が獲得した〉というような、独占契約が松竹と成立していたのか、という点である。


 松竹が横溝邸を訪れる前日に映画化契約を結んだATGの『本陣殺人事件』は、5月8日に日比谷の東宝本社で製作発表会見が行われ、7月9日に横溝は東宝試写室で完成作を観ている。本作を製作するにあたってATGが提携したのは、高林のプロダクションと、旧大映京都撮影所の技術スタッフが集まった映像京都である。映像京都の代表で、美術監督の西岡善信が語るところによると、完成度に満足した横溝は、「原作の映像権をすべて無償で渡す」(『サンデー毎日』17年2月26日)と告げたという。その申し出に西岡は、こう返した。


 「そう言われて、どうしようかと思いましたけど、ただ、『いただきます』と言うてちゃんと続けて映像にできんかったら申し訳ない。そう思って、ありがたい言葉ですけど、この作品だけで結構です、とお返事しました」(『紋次郎も鬼平も犬神家もこうしてできた』)


 この話には後日談があり、2年後、毎日放送が製作するTVシリーズで映像京都は再び金田一ものを手掛けることになり、西岡は横溝と再会する。そして「ああ、映像の権利はぜんぶ角川(春樹)さんが持っていった、と先生に言われて、ああ、しまった、あの時うちが全部もろうとけば、経営的にもずいぶんよかったのに。遠慮して損したな」(前掲書)というオチがつく。しかし、これが事実ならば、横溝は松竹にも映像京都にも、自作の映像化権を気前よく全部与えていたことになるが、優先的に権利を譲るという意味か、テレビ化権を譲るという意味合いで述べたのかもしれない。いずれにしろ、原作者による口頭の許諾によって、思わぬトラブルが発生することは後述する。


 ともあれ、松竹が複数の横溝作品の映画化権を取得したことで、その後の映画化に少なからず影響が出ていた可能性がある。というのも、1975年は『本陣殺人事件』『八つ墓村』以外にも、各社で横溝映画の企画が動き始めており、それらのラインナップを見ていくと、変則的な作品が並んでいることに気づくからだ。


 まず、ATGが『本陣殺人事件』に続いて映画化しようとしたのが『真珠郎』。1936年から翌年にかけて発表された美少年・真珠郎が織りなす残虐な犯罪を描いた横溝の戦前期における代表作である(金田一は登場しない)。この映画化の顛末は、1977年4月3日にTBS系で放送された『すばらしき仲間』(第65回 健在なり金田一耕助/横溝正史・横溝孝子・小川真由美)のなかで次のように語られている。



 横溝 ATGでやろうかと言ってたんですよ、『真珠郎』を。しかし、真珠郎を演る役者が……。


 小川 どなたがなさるわけですか?


 横溝 いや、やりたいと言ってたのが、それでお流れになっちゃったんですけどね。


 小川 ちょっといないですよね。ホタルがこう飛んでって、頬の中に入れるのが素敵ですね。


 横溝 演ってくださいよ。



 横溝が小川真由美に「演ってくださいよ」と言っているのは、この前に小川が舞台で真珠郎役を自分が演りたいと発言したからである。それはともかく、ATGの『真珠郎』が、キャスティングの問題で頓挫したことがここで判明するが、もう1本、東宝も金田一ものを企画していた。


 1975年12月5日の「日刊スポーツ」は、東宝が横溝の『吸血蛾』を映画化することを伝えている。これは1956年にも同じく東宝で映画化されたもので、20年ぶりの再映画化である。記事では、「この作品、単なるナゾ解き的な面白さばかりではなく、オオカミ男の殺しのテクニックが、女のコの両の足を切断したり、乳房をかみ切ったりとエロチックで、猟奇的な見せ場もふんだん」と、見どころを挙げている。


 東宝の関係者は「今から二十年前の作品とはとても思えないほど現代的な素材だけに、今の時代にもピッタリ。怪奇仕立てでゾクゾクするような映画にしたい」とコメントし、監督は、「ゴジラシリーズ」や「若大将シリーズ」を手がけてきた福田純監督のもと脚本の執筆に入っており、12月中旬には金田一耕助をはじめキャストも決定すると予告されている。


 この時期の東宝は、『血を吸う薔薇』(74)などの「血を吸うシリーズ」があり、おそらく、こうした怪奇映画テイストの1本として企画したと思われる。また未映画化に終わったものの福田純監督、掛札昌裕の脚本で、『戦慄火焔人間』『透明人間対火焔人間』という変身人間ものが同時期に企画されており、『吸血蛾』は、その延長上に捉えられていたのかもしれない。


 目を引くのが、横溝の〈要望〉である。「横溝氏の意向では、東宝の『吸血蛾』は松竹の『八つ墓村』公開の後にして欲しいということで、『吸血蛾』が公開されるのは『八つ墓村』の後ということになりそう」と記事は結んでいる。この時点では、1975年秋に封切られる予定だった『八つ墓村』の公開は1年延期されていたため、『吸血蛾』は1976年秋以降の公開を予定していたことになる。これはATGに次いで2番手に申し込んできた松竹に全作の映画化権を譲ると告げてしまった横溝からの配慮ではないか。


 だが、この再映画化版『吸血蛾』が作られることはなかった。全く新たな横溝映画の企画が外部から東宝に持ち込まれた影響と見て良いが、それについては後述する。なお、本作の監督予定だった福田純は、後年、世田谷区の文化人記録映画に携わっており、そのなかで短編記録映画「横溝正史 作家」のプロデュースも行っている。


 こうして並べてみると、1975年はATGで『本陣殺人事件』『真珠郎』、松竹では原作通りの時代設定の『八つ墓村』、東宝は『吸血蛾』と、角川映画登場以前は、全く異なる横溝映画の世界が広がりつつあったことがわかる。これで松竹が金田一シリーズを連続して作り始めていれば、1970年代後半の横溝映画は、現在観ることができるものとは全く異なる作品たちが並んでいたに違いない。


 前掲の「日刊スポーツ」では、1976年春の改編期に向けて各テレビ局が目玉作品として横溝ドラマを企画していることも伝えている。「東映、松竹、東宝の各テレビ室が、横溝作品の映画化権の窓口となっている角川書店に殺到。角川では、その作品の調整に頭を抱え込む始末――」とある。実際、横溝の手元には、この年、大映テレビによって提案された「NTV愛のサスペンス劇場」枠で『不死蝶』をドラマ化するための企画書が残されており、ドラマ化の申込みが、すでにこの時点から殺到していたことがわかる。映像における横溝ブームは、1975年にすでに始まっていたのだ。





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