『犬神家の一族』が映画化された理由
1975年10月27日午前11時58分、角川書店社長・角川源義死去。享年58。
長男の春樹はこの年、6月20日から8月5日までの47日間を推定復元された古代船野生号に乗船し、朝鮮半島から博多までを踏破する邪馬台国へのルートを解明する旅に出ていた。春樹の帰港から2日後の8月7日、源義は前々から思わしくなかった体調が悪化し、入院。その後、3か月近くを病床で過ごし、10月9日の源義58回目の誕生日には、春樹、弟の歴彦、姉の辺見じゅんが顔を揃えて祝った。しかし、同月末には意識が混濁し、25日に松本清張と井上靖が見舞いに訪れたのが最後の面会となり、翌々日に逝去。11月5日に築地本願寺で社葬が行われた。喪主は春樹、葬儀委員長は清張だった。
翌日、春樹はそれまでの編集局長から代表取締役社長に、営業局長だった歴彦は専務取締役にそれぞれ着任。12月12日に東京プリンスホテルで行われた角川三賞贈呈式で春樹の社長就任が発表された。ホテルの庭には野生号が運び込まれ、その大々的なパーティは参加者を驚かせ、新時代の角川書店を印象づけた。それは角川映画の始まりを予告するものでもあった。
それから1か月もたたない1976年1月8日、春樹は映画・テレビ・レコード・劇画等のタイアップ製作業務を目的とした角川春樹事務所を設立。そして、この年の秋に予定された「第二回横溝正史フェア」に向けて、『八つ墓村』に代わる新たな横溝映画の製作を決意する。
春樹は東宝の副社長だった松岡功に直談判し、その場で『犬神家の一族』をやりたいと伝えた。松岡からは、秋の邦画系にラインナップできるという答えが返ってきた。ただし、先行ロードショーは日比谷劇場を空けるが、一般公開は東宝が製作する『岸壁の母』(76)との2本立てになるという。映画興行に疎かった春樹は、それが収益の分配において東宝が有利に進むことをまだ知らない。この時点では、松竹の『八つ墓村』は1976年秋の公開を予定しており、その対抗馬として同じ横溝原作の映画をぶつけ、勝利することが春樹の祈願だった。
角川映画第1作に『犬神家の一族』を選んだことが、春樹の慧眼だったと言われる。たしかに片岡千恵蔵の金田一シリーズでも映画化 (『犬神家の謎 悪魔は踊る』)された横溝の代表作の1本ではあるが、原作ファンならば、『本陣殺人事件』『八つ墓村』の次と言われれば、『獄門島』『悪魔の手毬唄』『悪魔が来りて笛を吹く』あたりを先に映画化したくなるのが当時の感覚ではないか。なぜ『犬神家の一族』でなければならなかったのか。
理由は諸説あり、春樹もいくつか理由らしきものを述べている。日本人には一族間の問題や親子関係の物語が受けるからと答えたこともあれば、山崎豊子の『華麗なる一族』のヒットを受けてと語ったこともある。また、春樹がジョセフ・L・マンキーウィッツ監督の『探偵〈スルース〉』(72)に感銘を受けたことから、同作と『オリエント急行殺人事件』の影響で『犬神家の一族』を選んだと記したこともある。
――ここで仮説を立ててみたい。この時期、映画化可能な横溝作品は果たして何本あったのだろうか。
というのも、前述したように、松竹は『八つ墓村』以外にも、かなりの数の横溝作品の映画化権を押さえていたという情報がある。主要作で言えば『獄門島』『悪魔が来りて笛を吹く』は、1975年から2年間、松竹が権利を押さえていた可能性がある。事実、1977年になると、東宝は、この2本をラインナップに加えている。筆者の仮説が正しければ、松竹の2年間の権利が切れると同時に、東宝が映画化権を獲得したことになる。
そして、『獄門島』はただちに東宝で映画化されたが、『悪魔が来りて笛を吹く』の製作は見送られ、その2年後に東映で映画化されている。松竹→東宝→東映と、2年おきに権利が移ったと考えれば、このタイムラグは不自然ではない。この仮説に沿えば、70年代後半の横溝ブームで作られた映画たちは、作品選択にかなりの制限が生じていたことになる。つまり、『犬神家の一族』は、その時点で松竹以外の映画会社によって映画化可能な数少ない1本だったのではないだろうか。
前述したように、1975年12月4日の段階では、春樹は松竹と『八つ墓村』の提携を行うべく交渉を進めていた。それが翌年の1月8日に角川春樹事務所が設立された時点で、『八つ墓村』の話は消えた。つまり、この1か月の間に、提携の話はご破算になったと見て良い。実際、『犬神家の一族』の初稿脚本を書いた長田紀生が記した同作の創作ノートは、1976年1月から始まっており、この時期に脚本の依頼がなされたと考えられる。角川映画から『八つ墓村』が切り離され、新たに『犬神家の一族』が企画されたことで、横溝映画を取り巻く状況は大きな変貌を見せることになる。
角川映画、登場
1976年5月24日、角川春樹事務所は東京プリンスホテルで映画製作発表を行う。それまでの〈出版×映画〉のタイアップ規模を越えて映画製作を行うにあたり、東宝、東映、ATGを巻き込んで、同時に3本の映画を作ることにしたのだ。それが、深作欣二監督『いつかぎらぎらする日』、村川透監督『オイディプスの刃』、そして、横溝正史原作、市川崑監督の『犬神家の一族』だった。
『いつかぎらぎらする日』は、かつて東映で製作予定だった『実録・共産党』をもとに、角川と東映が提携して作るもので、主演は川谷拓三。8月下旬にクランクアップ、1977年春公開が予定されていた(後に製作中止)。後年、深作が監督したアクション映画『いつかギラギラする日』(92)にタイトルが流用されたが、内容は別物である。
ATGと組んだ『オイディプスの刃』は、藤村志保、瑳峨三智子、中山仁、川口晶、松田優作が出演するもので、南フランスで予告編の撮影も行われ、12月上旬にクランクイン、12月下旬完成、1977年春公開と発表されたが、『いつかぎらぎらする日』と同じく後に中止となった(後年、仕切り直されて新たなスタッフで映画化)。この2本は、角川が製作費を全額負担すると発表された。
東宝で配給される『犬神家の一族』は、春樹が旧知の日本ヘラルド常務の原正人から紹介された東宝の子会社・芸苑社の市川喜一をプロデューサーに立てたもので、ちょうど喜一は夏目漱石原作の『吾輩は猫である』(75)を市川崑監督で映画化した直後ということもあり、猫に続いて犬という意味合いがあったのかは不明だが、監督に市川崑を推薦した。製作費は2億2,000万円。角川書店が保証することで角川春樹事務所は銀行から1億5,000万円の融資を受け、東宝が7,000万円を出資した。この席で金田一耕助役を石坂浩二が演じることも発表された。
結論から言えば、華々しくスタートを宣言した角川映画は、発表した3本のうち、『犬神家の一族』のみ完成したことになるが、映画製作には全く素人の中堅出版社の若社長が乗り出し、東宝、東映、ATGのプロデューサーが顔を揃えた同時製作発表は、角川映画の船出を喧伝するには充分だった。そもそも、ライバル会社が同席すること自体が業界の慣習を破るもので、春樹は、映画関係者から次のような注意を受けたという。
「一緒に並べるなんてことは、いままでの映画界の常識じゃ考えられないってね。(中略)でも、あとで、市川喜一(東宝)さん、日下部五朗(東映)さん、葛井欣士郎(ATG)さんに話聞くと、別に構わないって、それほど心証を害してはいないんですよ。映画界というのは、ごく常識的なことでも通らないんですね」(『ムービーマガジン 7号』)
つまり、春樹にとっての〈常識的なこと〉に賛同する映画会社が、会見に顔を揃えたのだとも言える。この席に松竹がいないことについては業界誌でも話題となり、「一説によると、角川事務所の方から松竹に話はあったらしいが、松竹が十月の横溝正史フェアに間に合うよう製作できると確約をしなかったから話はダメになったという噂もあるがね」(『映画時報』76年5月号)と、はやくも内情が漏れている。
6月22日には、赤坂プリンスホテルで『犬神家の一族』単独の製作発表が行われ、石坂浩二、高峰三枝子、島田陽子ら主要キャストが劇中の衣装を身に着けて顔を揃えた。この席には横溝も顔を出し、「和服の金田一は初めてですよ」(『スポーツニッポン』76年6月23日)と、これまでの金田一が原作とはかけ離れたスタイルだったことから、原作通りの扮装で現れた石坂=金田一の姿を喜んだ。そして、「脚本を読んだらあまりドロドロしているので怖かった。こんな怖いことを私は書いてない」(前掲)と語り、記者たちを笑わせた。
長野県大町市の青木湖で6月30日にクランクインした同作は、その後も話題を振りまきながら撮影を進めていった。7月23日には、北佐久郡望月町の旅館で行われた撮影に横溝も参加。那須ホテルの主人役で登場し、金田一とのかけあいを見せた。『信濃毎日新聞』の取材に横溝は、「どう撮れているか楽しみだ。とはいえ私は作家。映画出演は最初で最後にしてもらいたい。この作品の映画化は二十数年前の片岡千恵蔵主演のものについで二度目。それだけに作品の生命が長いということでうれしい」と語っている。なお、横溝の映画出演は、これが〈最初で最後〉とはならず、以降も恒例行事のように、予告編、本編へと引っ張り出されることになる。
こうして順調に撮影が進む『犬神家の一族』を横目に危機感を積もらせていたのが、松竹の『八つ墓村』だった。1971年に映画化が立案され、1975年から準備に入っていたにもかかわらず、予算の問題も解決しておらず、いまだに撮影の目処が立っていなかった。
中編に続く
※参考文献は「後編」に一括掲載します。
(前編・了)
1978年生。映画評論家。『映画秘宝』『キネマ旬報』『映画芸術』『シナリオ』等に執筆。著書に『映画評論・入門!』(洋泉社)、共著に『映画監督、北野武。』(フィルムアート社)ほか