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『八つ墓村』(77年版)横溝ブームに角川映画、時代の渦中で何が起きたのか?【そのとき映画は誕生した Vol.3 中編】

※資料(『八つ墓村』脚本各種):筆者蔵

『八つ墓村』(77年版)横溝ブームに角川映画、時代の渦中で何が起きたのか?【そのとき映画は誕生した Vol.3 中編】

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 渥美清が生涯にただ一本だけ探偵・金田一耕助を演じた松竹映画『八つ墓村』は、数多く作られた横溝映画のなかで最大の製作規模でつくられた大作であり、最大のヒットを記憶した点でも突出している。しかし、シリーズ化されることもなく、同時代につくられた市川崑監督の金田一シリーズに比べると、評価もかなり低い。


 この歪な状況はなぜ生まれたのか。興行の数字と評価の反比例というだけでは割り切れないものがある。その謎は、企画から撮影、公開にいたる流れをつぶさに見つめることで明らかになっていくだろう。前編では企画段階のエピソードを中心に見てきたが、中編では横溝ブームがいよいよ加熱し、ようやく撮影に入ろうとする『八つ墓村』に何が起きていたのかを見てみたい。



前編はこちらから



Index


脚本家 橋本忍



 角川映画が電光石火で『犬神家の一族』(76)の企画を立ち上げ、早々と撮影に入ったのとは対象的に、同じ横溝正史の原作を映画化する松竹の『八つ墓村』は、1975年秋に公開予定だったにもかかわらず、公開延期を繰り返しながら暗礁に乗り上げていた。遅延の理由は、鈴木尚之による脚本が完成する見通しが立たないことに加えて、製作本部長の三嶋与四郎が更迭され、製作本部長代理として脇田茂が着任するまで、松竹内で人事がごたついたことも影響していた。


 やがて、事態は脚本家の交代へと発展する。代打に立ったのは橋本忍である。もっとも、キャリアからいえば橋本は鈴木の先輩にあたるが、橋本と鈴木は旧知の間柄であり、かつて鈴木が東映の企画本部脚本課に在籍していた若き日には、タイプライターにカナ文字で書く橋本の脚本を清書する役目を担ったこともあった。橋本はそのことを後々まで恩義に感じ、自分が死んだときは、山田洋次、国弘威雄、中島丈博ら、いずれも橋本のカナ脚本を清書した経験を持つ監督や脚本家たちだけで葬儀を行うよう遺言状を作成しており、そのなかには鈴木の名前も入っていた。しかし、2005年に鈴木が先立ったことで、この遺言が実行されることはなかった。


 こうした関係があったせいか、あるいは、『八つ墓村』の立ち上げに橋本が携わり、橋本プロダクションで『砂の器』(74)、『八甲田山』(77)に続く第3弾として同作が内々に検討されたことがあったせいか、この脚本家交代劇はスムーズに運んだようだ。とはいえ、3年にわたる『八甲田山』の撮影にすべて立ち会っていた橋本に、『八つ墓村』の脚本執筆を行う時間的な余裕などあったのか疑問に思えるが、1976年の『八甲田山』撮影スケジュールを見ると、1月に高倉健が率いる部隊の撮影を弘前市、十和田湖などで行い、4月は春の風景、夏は津軽海峡の自然を撮影し、10月から翌年2月にかけて大部分のロケを行う日程になっている。


 したがって、1976年の前半ならば、撮影がそれほど詰まっていないこともあり、脚本執筆の時間を捻出することが可能だったようだ。こうして、『砂の器』コンビである野村芳太郎と橋本忍の手に『八つ墓村』が託されることになった。


 橋本は本作について、「お盆の帰省客が多いのを肌で感じて、これは永遠に新しい材料だと思い、必ず面白いものになると考えていた」(『映画時報』76年8月号)と語るところからもわかるが、原作をそのままダイジェストにするのではなく、独自の切り口を発見し、そこから脚色を発展させるタイプの脚本家である。原作と同じく昭和20年代を舞台にしていた鈴木の脚本から一転、橋本は現代へと時代設定を変えてしまう。さらに原作では重要人物だった里村慎太郎と典子の兄妹や、主人公と浅からぬ関係を持つ住職も、映画から消してしまう。そして、終盤では多治見家の邸宅が大炎上するという映画独自の見せ場を新たに用意している。


 本稿の前編でも記したように、鈴木が脚本を担っていた時期の初期構想では、里村慎太郎の存在が大きく扱われていたと推測できただけに、橋本版の脚本とは大きな隔たりがある。もっとも、橋本が原作を改変して主人公の辰也と美也子を恋仲にし、その愛を育む舞台装置として原作と異なるかたちで鍾乳洞を活用するのは、ミステリーとしてはともかく、映画的な脚色として一概に悪いとは言えない。しかしながら、橋本が『八つ墓村』をミステリーではなく、オカルトとして捉えた点は、功罪相半ばすると言わざるをえない。これは、同時代に『エクソシスト』(73)などのオカルト映画の流行が影響したものと見られることもあるが、橋本は以前より怨念を通じて過去と現在を交錯させる作劇を試みていた。


 たとえば、1956年頃に準備されていた『鉄輪』は、同名題の能の演目と、橋本の実体験をもとにした〈丑の刻参り〉がテーマの異色作である。監督は黒澤明で、ジャン・コクトーら世界中の監督たちが参加するオムニバス映画『嫉妬』の1本として企画された。


 終戦直後の製材所で、木材から丑の刻参りに使用された釘が発見されるところから幕が上がる。その製材所で働くヒロインには、思いを寄せるトラック運転手がいるものの、都会から戻ってきた女と関係を持っている。しかし、内気なヒロインはそのことを直接非難できない。苦しんだ挙げ句、彼女は21日間にわたる丑の刻参りで恨みを晴らすが、最後の夜に森から彼女が出てきたところで、トラックに出くわす。運転していたのは恋い焦がれていた男だった。隣席には例の女もいる。闇夜の森から頭に蝋燭を立てた鬼気迫るヒロインに出くわした男は驚愕し、ハンドル操作を誤ってトラックと共に谷底へと落ちていく。


 この企画は、発端となったオムニバス映画自体が中止となって実現しなかったが、黒澤×橋本コンビによる『羅生門』(50)、『蜘蛛巣城』(57)の現代版といえる作品になっていたかもしれない。黒澤は、現代劇ではなく平安時代ならば、この企画は成立すると橋本に進言したという。


 それから30年近くを経て、橋本はこの企画をもとに『愛の陽炎』(86)の題で映画化を果たす。しかし、黒澤が懸念したとおり、現代を舞台にしたことで無理が生じることになった。これは、時代設定を現代にした『八つ墓村』と同じ問題を孕んでいたが、なぜ、橋本は現代を舞台にすることに固執したのだろうか。





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