渥美清とスケキヨの夜
萩原健一が出演するパートの撮影が話題になる一方で、渥美清による金田一耕助のパートも、1976年のうちに撮影へ入っていた。もっとも、まだ本格的な芝居はなく、歩くシーンなどを中心としたウォーミングアップのようなものだったが。
1976年8月31日、渥美は、鍾乳洞と関西各地で調査する場面の撮影に向かう。このロケには『女性セブン』の記者が同行し、渥美に密着取材を行っている。その記事から、『八つ墓村』に関連する箇所を引用しつつ、新聞等に掲載された記事を参照しながら、このロケを再構成してみたい。
東京駅を10時12分発の博多行新幹線ひかりに乗った渥美は、小郡駅(現 新山口駅)で降りると、松竹のスタッフに先導されて山口市内の湯田温泉へ向かう。到着後、直ぐにホテル防長苑で地元記者との懇談会がひらかれ、自身が金田一を演じることについて語り始めた。
「金田一耕助ってひとは、ひとのことを調べるのが好きなんですよね。というより、コツコツ調べる以外にとりえがない。この役は、横溝正史先生が、私に、といってくれたそうなんですけど、今回の映画は、全体に悩んだり、憂いを含んだり、セッパつまったような役のひとばっかりでしょう。だから、ひとりくらい忘れものをしたようなオジサンがいてもいいんじゃないかということで、私が選ばれたんじゃないかな」(『女性セブン』76年10月6日号)
懇談会を終えると、スタッフが滞在する旅館へ移り、渥美がすき焼きをスタッフに振る舞う。野村芳太郎監督、撮影の川又昂と並んで座った渥美は酒を一切口にしない。野村も川又も同様である。スタッフはそのことをよく知っており、誰も気に留めない。食後、渥美はマネージャーと共に自身が泊まるホテルへと帰っていく。翌朝、ホテルから車で40分ほど北上したところにある景清洞へスタッフと渥美が移動する。秋吉台の外れにあるこの鍾乳洞で、渥美=金田一が初めてフィルムの中で動き出す。「薄いグリーンの型崩れした背広に長靴、白の開襟シャツ。麦ワラ帽子で手にした懐中電灯」と記事中で描写された渥美の扮装こそは、『八つ墓村』の金田一である。
渥美は金田一の衣装について、「話が現代だからね。まあ、ふん装には別に凝らない。スーッとこのまま出て行っちゃう。これが時代劇なら紋付き羽織なんて着るんだろうけど」(『読売新聞』76年9月21日・夕刊)と、あまり気に留める様子もない。
景清洞で撮影されたカットは、萩原健一の新大阪駅のカットと同じく、完成した映画の同様のシーンとは衣装が異なっており、特報でしか観ることができない。テストも兼ねた特報用撮影と言えよう。午前中で撮影を終えると、午後は移動である。その様子が「朝日新聞」の山口版では「“寅さん”山口へ」という見出しになっている。まるで『男はつらいよ』のロケが行われたかのようだが、それほど、すでに渥美清=車寅次郎の印象が根強く刻まれていたのだ。
秋吉台から再び小郡駅へ向かい、新幹線で新大阪へ。そこから国鉄天王寺駅へ移動し、和歌山での実地調査を終えた金田一が京都へ向かうために列車を乗り換える場面の撮影が行われた。大阪と和歌山を結ぶ阪和線の7番ホームを金田一が歩く姿を、キャメラは隠し撮りで追う。『大阪日日新聞』(76年9月8日)は、「電車がつく。人が流れる。その流れよりワンテンポ早く、人ごみをかきわける男がいる」と、一瞬の撮影の様子をスケッチしている。乗降客でごった返すホームを、麦わら帽子をかぶって伏し目がちに早足で歩く渥美を、いち早く見つける乗客もいた。「『あっ、寅さんや!』―労務者ふうのオッさんが声をあげて駆けよって、みるみるうちに渥美清の周囲は黒山の人だかり」(『新関西』76年9月7日)。わずか5分ほどの撮影ながら、この場面は完成した映画でも旅情感をかきたてる印象的な場面として登場する。
撮影スタッフと渥美はこの後、京都の東本願寺へ。その翌朝は兵庫県の丹波篠山、そこからさらに足を伸ばして氷上町の達身寺へ。劇中の金田一と同じく近畿地方を転々としながら、わずか数秒のシーンを撮影していく。続いて、新和歌浦の夕映えを望む和歌山市内のホテルへ移動。翌朝は5時30分に起床して、塩津の漁村で海のカット、極楽寺を訪れる場面が撮影された。
結局、1976年に撮影された『八つ墓村』では、特報用の鍾乳洞のカットと、近畿各地を歩くシーンを撮っただけで、芝居のある場面はリハーサルを2回ばかりやっただけで、本格的な稼働は翌年に持ちされることになった。
1928年生まれの渥美にとって、横溝正史、金田一耕助は馴染み深い名前でもあった。「それはもうルパンや怪人二十面相と同じく夢の中の人物だった」(『non-no』77年5月20日号)と語る。『八つ墓村』が刊行されたのは、渥美が浅草のストリップ劇場の専属コメディアンになった頃。このとき、仲間たちと「舞台でやれないかな。無理だろうな。やっぱり映画でなくちゃ」(『西日本新聞』76年8月21日・夕刊)と話し合ったこともあったという。同時期に製作されていた片岡千恵蔵が金田一を演じるシリーズも観ていた。渥美の語り口が、映画の雰囲気を伝える。
「始まる前がよかったですよねえ。こう、探偵のアシスタントをやるきれいな女優さん。まあその年の新人とかね、売り出し中の女優さんなんかが出ていて『私、こんなこと、ここでお話していいのかしら』といった出だしでね(笑い)。そこでバーンと字幕が出る。ああいうの、オレたち、とっても引き込まれましたね。ウーン、あの語り口ってのはなんともいえなかったですよね」(『日刊スポーツ』77年3月29日)と
渥美は映画について語るとき、興が乗ると、声色を真似、身振り手振りも加えて、その場面を再現することがあった。作家の小林信彦は、目の前で渥美が『野良犬』(49)の地味なシーン(志村喬の自宅で南瓜をつまみに配給のビールを三船敏郎と飲む場面)を熱心に形態模写する姿に感動したことを記している。見巧者だった渥美は、その作品の本質を捉えた場面を、言葉を尽くすのではなく、自らの視点で演じてみせることで批評してみせたのだ。
その意味で、千恵蔵版の金田一シリーズを語るときに、映画オリジナルのキャラクターである助手の白木静子(原作では『本陣殺人事件』にのみ登場するが、助手ではない)に注目する渥美は鋭い。実際、千恵蔵版金田一シリーズでは冒頭、汽車に金田一と静子が共に乗って、これから事件が起きる地へ向かったり、ラストは湖畔や海岸を歩きながら、2人で事件を振り返るのがパターンである。『悪魔が来りて笛を吹く』のように、「皆さま、昭和二十五年の一月十五日に発生したあの、天銀堂事件をご記憶でございましょうか」と、白木が観客に語りかけるところから始まるものもあり、金田一と行動を共にしながら事件を共に追う白木の存在は大きい。原作とはかけ離れたこうした存在こそが、ダンディズムあふれた千恵蔵=金田一を引き立てる。もっとも、渥美=金田一は、千恵蔵に範を仰ぐつもりなど全くないことは、これまでの発言からも見て取れる。前掲の『日刊スポーツ』で渥美は、金田一というキャラクターについてこうも語っている。
「金田一耕助っていうのは人間と人間が身をすり合わせているうちに出てくる“アカ”みたいなもんに、興味を持っているわけ。それを解決したから、ゼニをいくらくれ、というんじゃないんですよね。もちろん刑事、裁判官、弁護士とも違う。オレは、探偵という形をはっきり出さない方がいいと思っているの」
横溝が描く血縁の系譜を、“アカ”と独特な言い回しで表現するところが、思わず〈寅さんらしい〉と言いたくなってしまうが、本格的な撮影を翌年に持ち越された渥美は、それまでの時間を調査活動に専念している。まず彼が向かったのは、日比谷映画劇場だった。
1976年10月5日午後5時30分から、角川映画の第1作となる『犬神家の一族』の完成披露試写会が日比谷映画劇場でひらかれた。本作で初めて映画をプロデュースした角川春樹はタキシードで招待客を出迎えた。横溝正史夫妻、横尾忠則、浅丘ルリ子らに混じって、渥美の姿もあった。午後6時、上映に先立って、横溝、角川、そして監督の市川崑と、金田一を演じる石坂浩二の舞台挨拶が行われた後、上映が始まった。
このとき、初めて『犬神家の一族』を観た横溝は、「ただもうハラハラする思いで、なにがなにやらよくわからなかった」(『真説 金田一耕助』)という。横溝が納得したのは、1か月後に劇場で再見したときだった。
上映後、渥美は「最近の日本映画では出色のでき」(『スポーツニッポン』76年10月6日)と褒め称えた。敵陣への潜入捜査を終えて、翌春から撮影が再開される『八つ墓村』で自身が金田一をどう演じるか、石坂=金田一を前に、渥美は何を考えていたのだろうか。