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『八つ墓村』(77年版)横溝ブームに角川映画、時代の渦中で何が起きたのか?【そのとき映画は誕生した Vol.3 中編】

※資料(『八つ墓村』脚本各種):筆者蔵

『八つ墓村』(77年版)横溝ブームに角川映画、時代の渦中で何が起きたのか?【そのとき映画は誕生した Vol.3 中編】

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『八つ墓村』第一次撮影



 1976年8月16日、『八つ墓村』は新大阪駅でクランクインを迎えた。それまでも風景の撮影などは先行して行われていたが、俳優をフレームに収めた撮影は、これが初日である。この日は新大阪駅から撮影を開始し、大阪駅、淀屋橋へ移動するスケジュールが組まれていた。大阪ロケからスタートした理由は、長期の撮影を始めるにあたって、物語の冒頭から取りかかり、じっくりと調子を合わせていくためだった。また、全国でのロケが予定されているとはいえ、関西での撮影が大半を占めることも踏まえたのだろう。この日は松竹大阪支社で野村芳太郎監督と、主演の萩原健一が出席する会見もひらかれ、在阪マスコミ各社は、撮影の様子を取材するために新大阪駅へ押し寄せてきた。


 記念すべきファーストカットは、脚本に記された次のくだりである。



「S5 新幹線の大阪駅

辰弥、背広でネクタイをしめ出てくる。

   × × 

タクシー乗場で一台へ乗込み、行先を告げ、そのタクシーが走り出す。」



 新大阪駅のターミナルからショーケンが出てくるところを、キャメラが遠方から俯瞰でその姿を捉え、ズームで接近する。白いジャケットにパンツ、白のバケットハットをかぶったショーケンは、辺りを見回し、腕時計を見ながら歩き始める――というカットである。


 このとき撮影されたカットは、特報の第1弾にも使用されているが、完成した映画の同じ場面と比較すれば、ショーケンの衣装が映画ではグレーのスーツに変わっており、帽子もかぶっておらず、手に持つカバンも異なっていることに気づく。また、特報第4弾の同じカットでは、肩にカバンをかけて持っており、動きを変えて複数のテイクがこのとき撮影されたことが確認できる。


 特報と完成した映画で衣装が異なっているのは、特報の撮影時はマスコミを招いた模擬撮影的な雰囲気で行われ、後で正式な衣装に着替えて改めて撮影を行ったと考えることもできるが、第1弾特報に映された鍾乳洞などの他の映像も、完成した映画では大半が未使用である。洞窟の中を走るショーケンも、本編では見たことがない白のバケットハットをかぶっており、どうやら本編用に改めて撮りなおされたようだ。したがって、1976年に撮影された大部分は、マスコミに向けて撮影開始という既成事実を伝えるための〈特報用撮影〉の意味合いが大きかったのではないだろうか。


 この日は、続いて大阪駅に移動して雑踏の中を歩くショーケンを川又昂のキャメラが隠し撮りで追った。ショーケンは法律事務所が多く点在する淀屋橋方面へと向かっていく。この場面も、完成した映画では衣装が変わっていることに加えて、この時点ではまだ配役が決定していなかった小川真由美と北浜を歩く場面があることから、後日、再撮影されたとおぼしい。こうして、いわば肩慣らしのような雰囲気で、これから1年にわたる『八つ墓村』の撮影は静かにスタートした。


 とはいえ、1976年8月に撮影されたものが全て特報用だったわけではない。8月下旬に撮影された東京国際空港(羽田空港)のシーンは、完成した映画の冒頭と結末で印象的に登場する。ショーケンが演じる辰也は、航空機の誘導課に勤務しているという設定だけに、羽田空港の22番スポットならびに誘導課のJ3控室で撮影が行われた。劇中には、辰也が飛行機を誘導する場面もあるが、実際に動くジャンボジェット機を誘導するカットはショーケンが演じるわけにはいかないため、風貌がよく似た誘導課のM氏がスタンドインに選ばれた。停止した飛行機の前に立つカットからは、ショーケン本人である。


 この撮影については、社内広報誌『AGSだより』に詳しく書かれており、撮影中のオフショットも掲載されている。そこにはパドルの使い方を誘導課長から指導を受けるショーケンの姿や、撮影の合間に同じ作業着で職員たちと雑談する姿が写されている。誌面には、ショーケンから撮影後に寄せられた手紙も載っている。撮影時の雰囲気を伝えるものなので、以下に引用しよう。


 「撮影の折にはお世話になりました。パドルの動かし方や動作等いろいろ教えていただき、ありがとうございました。飛行機を誘導するということで、一見近代的な、華やかな仕事に見えますが、マーシャリングマンに扮して、実際に職場に出て真似ごとをしてみて感じたことは、非常に神経をつかう、大変な仕事ということでした。ほかの仕事でもそうでしょうが、この仕事は特に、何にもまして人間関係が一番たいせつなような気がしました。これから寒さもきびしくなりますが、皆さん、体に十分気をつけて頑張ってください」


 一方、この時期には、製作発表の際は未定だった主要キャストの森美也子役に、小川真由美が決定したことが報じられている。出演にあたって小川は次のように話している。


 「日本特有の血とおん念、あやしい美しさをちりばめた事件を、金田一探偵が実はこうでしたと合理的に、科学的に解決してみせる点に原作の面白さがあるんだけど今、若い人たちに受けているのはむしろ非合理的なおん念とか、オカルト的な要素だと思うの。ですから美也子もその点を強調して」(『報知新聞』76年8月30日) 


 原作から改変されたオカルト描写を肯定的に捉えた発言だが、翌年、横溝とテレビ番組『すばらしき仲間Ⅱ』で対談を行った際にも、『八つ墓村』をめぐって次のようなやり取りがあった。



 小川 (承前)あの美也子という女性は、自分のなかで分裂が起こっているわけでしょうか。

 横溝 そうみたいですね。

 小川 四百年前の霊が……。

 横溝 今度のシナリオではそういうふうになっていますね。



 オカルト的に美也子役を解釈しようとする小川と、冷ややかにそれを受け流す横溝という構図が垣間見える。前掲紙で小川は、占いに凝る友人から、いつか横溝作品をやらなければならないと言われ、7、8冊買い込んで読み始めたところ、2冊目に『八つ墓村』を読んでいる最中にオファーを受けたと語るなど、橋本忍のコンセプトを誰よりも理解する最も相応しいキャスティングだったのかもしれない。


 大阪、羽田での撮影を終え、翌月には山口県秋吉台で、400年前の落武者たちが八つ墓村を見下ろす峠へと歩くシーンが撮影された。第一次撮影は11月中旬で終わり、翌年4月まで中断する。野村芳太郎が、橋本忍と共に八つ墓村から遠く離れた雪の八甲田へと向かったからだ。『八甲田山』はいよいよ本格的な撮影が待っていた。


 野村自身は、『八甲田山』にプロデューサーとして携わりつつ、『八つ墓村』が中断している1976年の12月と翌年1月にかけて、松本清張原作の『鬼畜』を撮るつもりでいたが、流石に3本かけ持ちをする余裕はなく、『鬼畜』は1978年まで製作が延期されることになった。松竹の城戸四郎会長は、『八つ墓村』などより、『鬼畜』をやるべきと推奨していたという。


 通常の映画作りより時間をかけることになった『八つ墓村』は、1977年2月には、鳥取県日野郡日野町に八つ墓明神のオープンセットを組んでいる。実際に撮影されるのはこの年の夏だったが、朽ちた雰囲気を出すためにこの時期にセットを組み、風雨へ晒すことにしたのだ。





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