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『八つ墓村』(77年版)横溝ブームに角川映画、時代の渦中で何が起きたのか?【そのとき映画は誕生した Vol.3 中編】

※資料(『八つ墓村』脚本各種):筆者蔵

『八つ墓村』(77年版)横溝ブームに角川映画、時代の渦中で何が起きたのか?【そのとき映画は誕生した Vol.3 中編】

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八つ墓村は実在する



 橋本忍に交代したものの、依然として『八つ墓村』の脚本は難航していた。当初は1976年の2、3月には脚本が書き上がる予定だったが、遅々として完成する気配がない。前任者の段階から、脚本の完成を待ってからでは間に合わないことから、1975年6月より先行して撮影場所を探すロケーション・ハンティングが開始されていた。


 監督の野村芳太郎が本作で求めたのは、本物の〈八つ墓村〉だった。原作に「それはまるで摺鉢の底のような地点にあった。四方を山にとりかこまれて方二里あまり、その山々はかなりうえまで耕され、ふもとから摺鉢の底へかけては、水田も見られたが、それらの水田は文字どおり猫の額ほどの面積」と描写された村を見つけ出そうというのだ。もうひとつ、「巨大な巖といった感じの、どっしりとした重量感と安定感をもった建物で、土塀をめぐらせた邸内には、亭々と天を摩す杉木立ちが、うっそうとしてそびえている」と原作に記された豪奢な邸宅――寺田辰弥の生家となる多治見家(原作では田治見家)を発見することも、映画化の成否を決定づけると野村は確信していた。


 横溝映画におけるロケーションは、高度経済成長を経た1970年代半ばにおいて、すでに失われて久しい風景が求められる難題でもあった。ATGの『本陣殺人事件』(75)では、舞台となる旧本陣の一柳家が問題となった。低予算のATG映画では、セットを組むにしても、大島渚監督の『儀式』(71)のように、抽象的なセットによって旧家を再現するしかなかった。『本陣』は、幸いにもプロデューサーと美術監督を兼任する映像京都の西岡善信が、奈良県明日香村にある生家の邸宅を撮影に提供したことで、時代設定こそ現代に変更されていたものの、原作の世界観を壊すことなく映像化することを可能にさせた。


 では、こうしたロケーション問題に、同時期の市川崑監督が手掛けた金田一シリーズでは、どう対応していたのだろうか。


 『犬神家の一族』では犬神邸の外観と敷地内を長野県と都内の複数のロケ地を用い、室内は東宝スタジオにセットを建てることで成立させていた。問題となったのは、続く『悪魔の手毬唄』(77)である。舞台となる岡山県の鬼首村をどう見せるか。野村が『八つ墓村』で直面した問題に、市川も向き合うことになった。しかも、こちらは1年がかりで村を探すような余裕はない。東宝の金田一シリーズは、製作が決定した2か月後に撮影に入る慌ただしいスケジュールだった。制作部が鬼首村の候補に挙げた候補地は、市川の眼鏡にかなわず、スタッフは途方に暮れる。すると、市川は自身が所有する古いアルバムを示した。そこには20年前に撮影された『東北の神武たち』(57)のロケ風景が写されていた。つまり、同じロケ地で『悪魔の手毬唄』が撮れないかと言っているわけだ。こうして、山梨県甲府市の昇仙峡近辺を中心にして鬼首村が撮影されることになった。


 しかし、映画を観ればわかるが、鬼首村全体がどういう地理になっているのか分からない。これは、市川自身も忸怩たる思いがあったようで、「最近の日本映画の撮影条件では、やむを得ない」(『完本 市川崑の映画たち』)と、苦しい胸の内を明かしている。


 1977年版『八つ墓村』に話をもどすと、ロケハンから参加したのが、『砂の器』でも野村とコンビを組んだ名キャメラマンの川又昂である。野村と川又コンビによる八つ墓村を求めての旅路は、文字通り日本全国に及んだ。まず、最初に訪れたのは東北だった。これは、古い因習や怨念の匂いを今も残すのは東北だろうという見込みからだったが、2、3か月かけて東北地方をくまなく探したものの、八つ墓村に相応しいロケ地を見つけ出すことはできなかった。次に関東圏へ目を転じ、秩父、日光をめぐったものの、やはり、これぞという村には行き着かない。続いて信州、石川、富山と探し歩き、最終的に京都の奥地と岡山に絞り込んだ。


 ロケ地を決定する上で問題となったのは、多治見邸とのつながりだった。というのも、橋本の構想では、終盤に多治見家の屋敷が炎上する見せ場が用意されていたからだ。もちろん、イメージ通りの屋敷が見つかったとしても、撮影用に借りた建物に火をつけるわけにはいかないため、燃やすための精巧なレプリカを作る必要がある。つまり、多治見邸に相応しい荘重な屋敷を見つけ出すと同時に、それと同じオープンセットを、八つ墓村のロケ地へ建てなければならないわけだ。そうなると、単に別々の場所にある村と、多治見家の屋敷を撮るだけでは済まない。それぞれの地形と山の連なりなどを計算して違和感が残らないように接続しなければならない。


 最終候補地である岡山と京都が両天秤にかけられる中、岡山県で発見されたのが、岡山県高梁市成羽町にそびえる広兼邸だった。まるで城のような石垣に、いくつもの土蔵を併せ持つ荘重な母屋は、江戸時代後期に巨万の富を築いた庄屋が建てたものである。周辺には古い商家、町家が500メートルにわたって保存された吹屋ふるさと村や、車で1時間弱走れば、満奇洞などの鍾乳洞もあり、横溝正史の世界を映画化する上で絶好の舞台装置が揃っていた。


 広兼邸を多治見家に見立てて撮影することが決定すると、そこを起点にこれまで候補地だった場所が次々に決定していった。複数のロケ地を移動する場合、〈点〉よりも〈線〉が重視される。大所帯のロケ隊が移動するだけに、可能なかぎり近隣で撮影を行う方が望ましい。その結果、八つ墓村のロケ地に決まったのは、鳥取県日野郡日野町。奇しくも原作と同じく鳥取県と岡山県の県境に位置しており、まさに八つ墓村そのものだった。


 肝心の広兼邸とのつながりも申し分なく、日野町に広兼邸を再現したオープンセットを建築し、炎上シーンを撮ることも可能だった。1年以上にわたるロケハンは、撮影を目前にした1976年の夏、最後の10日ほどで運命に導かれるように、次々と決定していくことになった。


 余談だが、市川崑監督によって3度目の再映画化が行われた『八つ墓村』(96)でも、多治見家の邸宅は同じ広兼邸が選ばれた。このときの村のロケは、岡山県備前市吉永町の八塔寺ふるさと村で行われたが、茅葺き屋根が多く点在するこの村は、それ以前に今村昌平監督『黒い雨』(89)のロケが行われた村でもあった。その際に、電柱と電線の地中への埋設、村の中心部へ庄屋宅を移築させるなど整備が済んでいたことから、撮影のための条件が揃っていた。2019年にBSプレミアムで放送されたドラマ版『八つ墓村』でも、この村で村人32人殺しの場面が撮影されている。


 なお、『黒い雨』の撮影は、奇しくも1977年版『八つ墓村』を撮影した川又昂が担っていた。1996年版ならびに2019年版の『八つ墓村』に登場した八塔寺ふるさと村の下地を整えたのも川又ということになる。





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