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『八つ墓村』(77年版)横溝ブームに角川映画、時代の渦中で何が起きたのか?【そのとき映画は誕生した Vol.3 中編】

※資料(『八つ墓村』脚本各種):筆者蔵

『八つ墓村』(77年版)横溝ブームに角川映画、時代の渦中で何が起きたのか?【そのとき映画は誕生した Vol.3 中編】

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1977年の金田一耕助



 厳しい寒波で明けた1977年の元旦は、北陸を中心に豪雪となった。横溝正史は成城の自宅で息子の亮一家族と共に新年を祝った。その日の日記に正史は、「(去年は)一年中騒がしかりき一年であったが、今年はもっとゆったりとした一年でありたきもの」(『真説 金田一耕助』)と記したが、その希望が叶うことはなかった。横溝ブームはこの年いよいよ加熱し、映像の世界でも横溝作品が一斉に花ひらくことになるからだ。


 1月8日には、横溝が原作の『人形佐七捕物帳』を、松方弘樹主演で4月からのTVシリーズとして放送したいと東映からの使いが横溝のもとへ来る。松方は1965年にもNHKの『大衆名画座 人形佐七捕物帳』で1年にわたって主人公の人形佐七を演じていた。なお、そのとき子分の辰五郎を演じたのが渥美清である。12年の歳月を経て、その渥美が金田一を演じる『八つ墓村』が、この年の秋にいよいよ公開される。もっとも、前年の夏に華々しくクランクインが報じられたものの、まだ全体の10分の1に満たない分量しか撮影できていなかったが。


 一方、 前年に大ヒットした『犬神家の一族』の余韻が残るなか、東宝は前作と同じ市川崑監督×石坂浩二の座組で、はやくもシリーズ第2弾となる『悪魔の手毬唄』の製作に入っていた。横溝のもとへ『悪魔の手毬唄』映画化の打診があったのは、『犬神家の一族』(76)がロードショー公開された直後の1976年10月20日のことだった。東宝は、『犬神家』をプロデュースした角川書店社長の角川春樹にシリーズ化を打診していたが、色よい返事がなかったため、角川側の了承のもと、『悪魔の手毬唄』は東宝単独で製作されることになった。


 以前、筆者が行った角川春樹氏への取材でも、この点を尋ねたことがあった。

 


 ――なぜ角川映画で『悪魔の手毬唄』を作らなかったんですか?


 角川:そうしないと飽きられるから。たえず新しいことで観客を引きずり回さないと。


 ――たしかに角川映画は『犬神家の一族』の後は『人間の証明』『野性の証明』へと進む一方で、金田一ものは西田敏行さん、古谷一行さん、鹿賀丈史さんと毎回新たな金田一像を作り出していました。では東宝の金田一シリーズにはノータッチですか?


 角川:角川春樹事務所企画という形でクレジットされていますが、何を映画にするか意見することはないですよ。ウチは原作の映像化権を全部握っていましたから、原作権とは別に1千万円とっていたんです。



 〈原作の映像化権〉を完全に角川側で管理するようになったのは、横溝が『悪魔の手毬唄』の映画化契約を東宝と一度は交わした後のことだ。実際、横溝の日記でも、1976年10月23日に原作料150万円で一度は東宝と直接映画化契約を結んだが、後日、横溝は契約を破棄し、11月11日に改めて角川春樹事務所と原作料200万円で再契約したことを記している。以降、横溝作品の映像化契約は、角川を通して行うことになり、横溝は煩わしい作業から解放されたが、同時に別の問題も生じさせることになるが、それはまた後の話だ。


 『犬神家の一族』は、角川書店社長の角川春樹が映画製作のために起こした角川春樹事務所と東宝が提携して作られたが、『悪魔の手毬唄』は、東宝が子会社の東宝映画の製作で作るもので、同じ東宝配給ゆえにわかりにくいが、別会社によって作られたと言って良い。多くのスタッフが入れ替わった理由もそこにあった。撮影は1976年12月26日から開始されたが、この時点では脚本はまだ7割ほどしか完成していなかった。正月休みを挟み、年明けの1月13日からは山梨県中巨郡敷島町(現甲府市)で、岸恵子の場面から本格的な撮影をスタートさせた。

 

 2月に入ると、テレビでも金田一耕助が動き始める。毎日放送の「横溝正史シリーズ」である。これは『犬神家の一族』を皮切りに、『本陣殺人事件』『三つ首塔』『悪魔が来りて笛を吹く』『獄門島』等の代表作を連続して映像化するもので、1作品につき、3~5話と、原作に合わせて話数を伸縮し、制作も東京は東宝が、京都は映像京都が担うという柔軟な製作体制が取られていた。同月4日には、撮影に先駆けて、金田一を演じる古谷一行の衣装テストならびに宣伝用スチール撮影が大映京都撮影所で行われている。この席で初めて金田一の扮装を披露した古谷は、「ちょっととぼけた、そして信頼がおけないみたいだが最後に名推理で事件を解明する僕なりの金田一を作っていく。石坂さんとは、また違ったものが出るはずです」(『スポーツニッポン』77年2月5日)と、先行する石坂=金田一を意識した発言を行っている。


 後年、筆者が行ったインタビューでは、金田一を演じ始めた時期について、古谷はこう語っている。


 「その時、僕は33歳だったんですけど、TBSで半年やる作品(『新選組始末記』)が決まっていたんです。これは東京のスタジオで撮るのに、金田一は京都に行かなきゃいけない。それで、どうしようかなと。まず『新選組始末記』のプロデューサーが金田一を演ることを許してくれるのかというところから始まって。(略)でも、山本和夫さんという太っ腹なプロデューサーから『そっちの評判がこっちに跳ね返ってくれば、それは結構なことだから、やりなさい』と言ってもらえて。それで週の半分を京都へ行って、もう半分が東京という生活になったんです」

 

 こうした掛けもちは、助演クラスになると、さらに多くなる。同時期に東京・砧の東宝撮影所で撮影が進んでいた『悪魔の手毬唄』で由良泰子を演じた高橋洋子も、東映京都撮影所で撮影が進む深作欣二監督の『北陸代理戦争』(77)に掛けもちで出演していた。


 1月24日にクランクインした『北陸代理戦争』の公開日は、2 月26日。わずか1か月強で撮影から仕上げまで行う短期決戦だったが、トラブルが続出した。福井県内に実在する現実の暴力団組長をモデルにしたことから、福井での撮影に警察からの道路使用許諾が降りず、撮影へ支障を来たしたのは序の口で、追い打ちをかけるように重要な役で出演していた渡瀬恒彦が運転するジープが撮影中に横転するという事故が起き、右足に重傷を負った。渡瀬は降板となり、代役は二転三転した末に伊吹吾朗が決まった。


 しかし、このままでは公開日に間に合わないことから、中島貞夫監督が助っ人に入り、B班監督を担うことになった。『スポーツニッポン』(77年2月19日)には、「中島監督は主演の松方弘樹君とは一番数多く仕事をしているのでお願いした。急な話なのに気持ちよく引き受けてくれて感謝している」という深作と、「困っている時はお互いさまです。ボクは“助っ人”として深作さんの演出にそう」という中島の発言が並んでいる。


 ようやく撮影が再び軌道に乗り始めたところで、渡瀬に続いて高橋洋子に異変が起きる。2月18日、高橋は口にじょうろを咥えた死体となって仰向けに浮かんでいた。もちろんこれは東宝撮影所の第9ステージに組まれた滝のセットで行われた『悪魔の手毬唄』の撮影である。東京と京都の撮影所を往復していた高橋は風邪気味だったが、この水攻めで遂に発熱する。それでも再び京都へ戻り、『北陸代理戦争』の追い込みへ入っていった。


 公開5日前の2月21日、午前9時から27時間連続の不眠不休撮影が始まった。スタジオには深作と中島がそれぞれ監督するセットが組まれ、俳優たちは、細かく組まれた時刻表に沿って、スタジオを行き来して残りの10シーン、100カットの撮影に挑んだ。発熱中の高橋は、体を気遣って顔が映らないカットは吹き替えを使おうとする深作を制し、全編を自分で演じることを希望する。そこでスタジオの隅に簡易ベッドを設え、体を横たえながら撮影が続行した。22日午前11時55分に松方と高橋のからみが撮り終わると、深作の「ご苦労さん、さあ終わりだ」の声が響く。疲れ果てたスタッフ十数人があちこちで握手する姿が見られた。こうして4日後の公開へ、どうにかこぎつけることができた。


 『北陸代理戦争』のクランクアップから 2日後の2月24日、東映京都撮影所から京福嵐山本線の線路をまたいで南に下った大映京都撮影所のA1スタジオに、角川春樹の姿があった。古谷一行が金田一を演じる「横溝正史シリーズ」1作目となる『犬神家の一族』のクランクイン初日に顔を出したのだ(本シリーズには企画協力として、角川春樹事務所がクレジットされている)。


 大映京都のスタッフたちによって設立された映像京都が制作を担うテレビ版『犬神家の一族』がライバルと目するのは、市川崑だった。大映時代の『炎上』(58)、『鍵』(59)や、TVシリーズ『木枯し紋次郎』に至るまで市川と組んできた旧大映京都スタッフにとって、市川は理想的な仮想敵だった。特に映像京都の代表を務め、美術監督を兼任する西岡にとっては、市川から映画版『犬神家の一族』の美術監督をオファーされながら、スケジュールの関係で断っていた因縁もあっただけに、負けるわけにはいかなかった。


 巨大なステージに建てられた犬神家邸宅の美術費用は1千万円。1枚3万円という長廊下のガラス戸16枚には犬神家の紋章が刻まれていた。財宝と神をイメージしてデザインされたこの紋章は、奥座敷の天井にも描かれている。犬神家の三種の家宝である「斧琴菊」は、古代の鏡の形をもとに作成されたもので総額40万円。小道具の金時計は近江神宮時計博物館から借り出したものを使用するなど、映画とは異なるアプローチで細部を充実させていった。また、大映京都撮影所を使用することで映画史の遺産を贅沢に用いることもできた。何気ない開き扉の角金具は溝口健二の映画に使用されたものを流用するなど、予算以上の厚みを画面にもたらした。


 現場を見た春樹は、「映画でけられた京マチ子さんの松子役も実現したし、セットは伝統の大映、映像京都さんの手づくりの重量感。いいじゃないですか」(『スポーツニッポン』77年2月25日)と、市川崑の映画版では高峰三枝子が演じた松子役を、当初は京マチ子にオファーしたものの断られていたことを明かしつつ、映像京都の凝った美術と映像を褒め称えた。





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