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『八つ墓村』(77年版)横溝ブームに角川映画、時代の渦中で何が起きたのか?【そのとき映画は誕生した Vol.3 中編】

※資料(『八つ墓村』脚本各種):筆者蔵

『八つ墓村』(77年版)横溝ブームに角川映画、時代の渦中で何が起きたのか?【そのとき映画は誕生した Vol.3 中編】

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既成事実のための製作発表



 1976年8月、長野ロケを終えた『犬神家の一族』は、東宝撮影所でのセット撮影を中心に追い込みに入っていた。同月13日、『八つ墓村』は、ようやく製作発表にこぎつけた。この日の午後2時、銀座の東急ホテルで行われた製作発表に出席したのは、野村芳太郎監督、脚本の橋本忍、金田一耕助役の渥美清、そして、寺田辰弥役に決まったショーケンこと萩原健一である。会場には、鍾乳洞の写真が大きく引き伸ばして飾られ、その前に登壇者たちが並んだ。


 まず、野村が「やりたくてやりたくてしょうがなかった。ねばりにねばってここまでこぎつけたので、責任の意味からもプロデュースに名を連ねた」(『スポーツニッポン』76年8月14日)と、ようやく撮影がスタートする喜びと、監督とプロデューサーを兼任する理由を語ったが、野村が熱っぽく語ったのは理由があった。この時点では予算をはじめとして未決事項が多く、下手をすれば映画が流れる可能性も少なからずあったからだ。


 野村は助監督時代から、〈予算を読む〉ことが出来ることで重宝されてきた。つまり、脚本を読むだけで撮影が何日かかり、製作費がいくらかかるかを計算できた。「誤差は製作日数で一、二日、予算で一割前後」(『週刊現代』78年8月3日号)というから、プロデューサー以上に的確に数字を読めたことになる。『八甲田山』で、橋本と共にプロデュースにあたったのも、その能力を見込まれてのことだ。


 もっとも、予算が読める能力は、製作費を安く抑えることばかりに発揮されるわけではなかった。むしろ野村は、「映画の映画的面白さは金と時間をかけて作るしかない。興行収入二十億円をあげるなら三年ぐらいかければいいわけですよ。『八つ墓村』なら鳥取県と岡山県の県境に三千万円の家を建てて、火をつけなきゃ駄目なんです」(前掲『週刊現代』)と、必要な箇所には贅沢に予算を投入すべしという考えを持っていた。まさに『八甲田山』はその方法論で作られていたが、安く作ってヒットさせたい映画会社とすれば、予算をめぐって野村と対立するのも無理からぬところだった。


 実際、『八つ墓村』では、松竹の経理と製作が割り出した額と、野村が計算した額では、7〜8千万円のひらきがあったというから、リスクをおそれる松竹が、製作中止を決定してもおかしくはなかった。この製作発表も、撮影が始まることを既成事実化してしまうことで、未解決の予算問題を強行突破する目論見があったようだ。


 ショーケンへのオファーは、橋本から行われた。当時、映画では神代辰巳監督と組んだ『青春の蹉跌』(74)、『アフリカの光』(75)、テレビでは『傷だらけの天使』『前略おふくろ様』と、生涯の代表作となる傑作に次々と出演していた絶頂期である。橋本が主人公にショーケンを欲しがったのも無理はない。だが、こだわりが強く、地味でも質の高い作品を好むショーケンは、〈娯楽映画大作〉の『八つ墓村』に喜んで出るタイプではない。実際、出演すべきか否か、判断に迷っていた。後押ししたのは、ポール・ニューマンだった。もちろん、直接『八つ墓村』に出ろなどと進言したわけではなく、当時、パニック映画大作『タワーリング・インフェルノ』(74)に名優のニューマンが出演したことにショーケンが驚き、自分もその気になったのだという。


 「要するに、それまではずっとガッチガチだったわけさ。考え方も取り組み方も。そんなに無理しなくていいのかと。そう思って出たのが『八つ墓村』だ。渥美さんが好きで、一度一緒にやりたかったこともある」(『ショーケン』)


 しかし、出演を了承したものの、撮影開始の目処が立たないことから、ショーケンが焦れだし、この製作発表は〈ショーケン対策〉という面もあった。製作発表が行われた1976年8月は、ショーケンにとって大きな区切りとなる時期だった。テンプターズ解散後に所属していた渡辺プロダクションの関連会社である渡辺企画を同月2日に退社しており、『八つ墓村』は独立後の記念すべき第1作になった。会見でショーケンは、次のようにコメントした。


 「なんかすごく責任重大でどこまでやれるのかちょっと心配です」(『報知新聞』76年8月14日)


 「『約束』以来の松竹主演だが、この映画のために半年間休みをとった、これまで撮影期間のみじかい作品ばかり7本に出演したが、今度は渥美さんをはじめベテランのかたがたのなかで、足手まといにならぬようがんばりたい」(『映画時報』76年8月号)


 そして、金田一を演じる渥美からは、「これまでは平和な中に入っていってかきまわす役だったのに今度は事件をワキからみてる司会者のよう。こんな行儀のいい役が果たしてできるのか……」(前掲『スポーツニッポン』)と、すっかり定着した『男はつらいよ』で演じる車寅次郎を念頭においた口ぶりで、集まった記者たちを笑わせた。


 先行する『犬神家の一族』の金田一役である石坂浩二について問われると、「顔じゃ勝てないがチエくらべなら負けません」(『週刊明星』76年9月5日号)と、終始、寅さんのような軽妙なやり取りを見せた。


 この席で、製作費は6億円、撮影は翌年の8月まで行われ、1977年9月末に公開されることが発表された。しかし、実態は混沌とした状況のなかで、『八つ墓村』の撮影が始まろうとしていた。





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