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『八つ墓村』(77年版)横溝ブームに角川映画、時代の渦中で何が起きたのか?【そのとき映画は誕生した Vol.3 中編】

※資料(『八つ墓村』脚本各種):筆者蔵

『八つ墓村』(77年版)横溝ブームに角川映画、時代の渦中で何が起きたのか?【そのとき映画は誕生した Vol.3 中編】

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青酸チョコレート事件と津山事件



 TVシリーズの製作もスタートし、映画・TVに金田一が次々と登場することになる1977年は、新聞雑誌で石坂浩二、渥美清、古谷一行の金田一を比較する記事がにぎわせた。


 2月26日の『東京新聞』夕刊では、横溝正史に3人の金田一の〈品定め〉を依頼している。成城の横溝邸で、応接間のテーブルに3人の金田一の写真を並べて鑑定してもらうというもので、この時点では、石坂の『犬神家の一族』のみが公開されており、渥美、古谷の出演作は未完成だった。横溝は石坂について、「ふん装は凝っていて原作のイメージに近かった。どこかすっトボケたところがなんともよかった。ただ難をいうとハンサム過ぎる」と語り、古谷には「ボクこの人知らないな。(略)この程度の顔が“手ごろ”でいいんじゃない」と素っ気ないが、まだ作品を観ていないのだから仕方あるまい。そして渥美については、「いいな。素朴なところがなんともいい。ただ原作の金田一よりは少々ゴツイ感じだな。あれだけの人だから、きっと金田一の新しい面を開発してくれると思うけど――」と期待をにじませた。


  ところで、この記事が掲載された2月26日は、都内で無差別殺人未遂が起きていたことが明らかになった日でもある。2月14日、東京駅の八重洲地下街でショッピングバッグに40箱の江崎グリコのチョコレートが入っているのを通行人が発見した。時節柄バレンタインの落とし物と思い、勤務先近くの交番に届け出たが、24日まで遺失物として保管されたものの落とし主が現れなかった。食品はメーカーで換金されて6か月後に拾い主に渡されるのが慣例となっていたため、このチョコレートは江崎グリコ東京支店へと送られた。


 ところが同支店で調べると、セロハンを剥がした後に貼り直した痕跡があり、製造番号が切り取られているなど不審な点が多く、25日に大阪本社の中央研究所で鑑定が行われた。結果、箱の中の1粒のチョコレートに米粒大の白い粉が埋め込まれていることが発覚する。その粉を分析すると、青酸化合物0.1グラムを検出した。その後の警視庁の調べでは、各箱に1粒ずつ致死量の青酸ナトリウムが仕込まれていることが明らかになった。また40箱のうちの1箱には中箱の外側に手製のゴム印と思われるカタカナで「オコレルミニクイニホンシンニテンチユウヲクタス」(おごれる醜い日本人に天誅を下す)と記されていた。


 第一発見者は、この毒入りチョコが入ったバッグの前を一度は通り過ぎたものの、思い直して道を戻って交番へ届け出た。というのも、この年の1月から都内で公衆電話横に置かれた未開封の青酸入りコーラを飲んだ者が相次いで中毒死しており、そのことが頭をよぎったのだ。この青酸チョコレート事件が公になったのが26日。翌日の各紙には識者のコメントが掲載されたが、『東京新聞』には前日に続いて横溝が登場し、事件について私見を述べている。


 「青酸入りコカコーラ事件の模倣でしょうな。前の犯人像はわからないが、今度は世をすねた若者じゃないかと思うね。(略)こうした無差別殺人をねらった犯罪は現代的ですよ。都会が荒廃して、若者が孤独なんです。ボクらの若いころは、一世をシンカンさせるような事件はほんとに数えるほどしかなかった。それが、今じゃ毎日でしょ。やっぱり現代は病んでいるねえ」


 横溝らしいのは、類似する海外の探偵小説を挙げている点だろう。曰く――「ボクが昔読んだ外国の探偵小説に、お菓子メーカーから送られて来た商品見本を食べて死ぬという内容のがあったけど、あれは被害者の人間関係をたぐって行くと犯人にぶつかる。今の事件はそうじゃないからね。名探偵・金田一耕助をもってしても解きがたい。まさに理由なき殺人ですなあ」。


 最後の金田一のくだりは、記者が誘導して言わせたきらいがあるが、ともあれ、こうした現実に奇怪な事件が起きると、横溝に早速コメントを取るところに、横溝ブームを実感させる。


 横溝と現実の事件といえば、「津山事件」の存在を欠かすわけにはいかない。1938年5月21日、岡山県苫田郡某所で、21歳の都井睦雄が猟銃と日本刀を用いて就寝中の村人を襲撃し、28名が即死(後に重傷者2名も死亡)する大量殺人事件が起きた。翌日の「大阪朝日新聞」は号外で「戦慄の三十人殺し」という大きな見出しに続いて、被害者の顔写真18名を掲載した。「大阪朝日岡山版」(38年5月22日)では、地方面を10段抜きで事件の詳報に費やし、睦雄の顔や、詰めかけた警官、一家皆殺しに遭った家の様子などを大きな写真入りで載せている。


 この事件の異様さは、殺害された人数の多さはもちろんのこと、「黒詰襟にゲートル、猛獣狩用口径十二番九連発の猟銃を手にし日本刀を腰にさしその上短刀をポケツトに入れ(略)ナショナルランプを腹に 頭に懐中電燈二個をくゝりつけ、さながら阿修羅の扮装」(前掲紙)という異様な風体で犯行が行われたことも、恐怖をかきたてた。「読売新聞」(38年5月 22日・夕刊)には、「廿八人を獵銃で射殺/岡山に殺人の大レコード」という見出しが踊っているが、実際、近代日本でも類を見ない短時間の大量殺傷事件となった。警視庁鑑識課の高尾係長が「単獨犯行としても二人以上の犯行としても全く初めての事件で恐らく世界記録でせう。概して多数を殺す原因は怨恨か狂人ときまつてゐます、それだけに犯人は必ず逮捕されるか自殺して未検挙のものは殆んどありません」(『東京日日新聞』38年5月22日)と語るように、睦雄も決行後に命を絶っている。


 5月21日午前1時30分頃に就寝中の祖母の頭部に斧で一撃を加えて絶命させた睦雄は、午前3時頃にかけて近隣11戸を襲撃(そのうち3戸は一家全滅)。凶行を終えると峠を登り、村から4キロ近く離れた山の頂で遺書をしたため、犯行に用いた猟銃を自らの心臓に押し当て、足の指で引金を引いた。死亡時刻は午前4時半頃と見られている。実にわずか3時間で全てを成し遂げたのだ。その姿が発見されたのは、そこから6時間が過ぎた午前10時半頃だった。なお、2019年の京都アニメーション放火殺人事件まで、単独犯による殺害人数としては津山事件が記録を保持し続けていたことからも、事件の重大性が理解されよう。


 津山事件が起きた1938年、横溝は上諏訪で療養生活を送っていた。事件の報道は全国紙でも見られたが、犯人の自殺によって早々に解決したこともあって、関西圏の新聞に比べると後追い報道も多くはなかったようで、当時の横溝は事件を全く知らないままだった。初めて存在を知るのは10年後、1948年のことだった。


 戦争末期、横溝は岡山県吉備郡岡田村字桜へ疎開していた。間もなく敗戦を迎えたものの、直ぐに東京へ戻ることは叶わなかった。しかし、これが幸いに転じた。1946年春から年末にかけて『宝石』誌上で連載された『本陣殺人事件』は、岡山が舞台に設定され、続く『獄門島』も瀬戸内に浮かぶ孤島で起きる連続殺人事件が描かれた。いずれも、横溝の岡山滞在時代に執筆されたものであり、『本陣殺人事件』で初登場した金田一耕助は、岡山で起きる事件に挑んでいくことになる。


 もうひとつ、岡山における地方文化人としての交際が、思わぬ福音をもたらした。1948年初頭に『山陽朝報』紙上で行われた座談会で、岡山県警刑事課長や、警察署長との対話の中で、横溝は津山事件の存在を教示されたのだ。もっとも、「いつごろの事件ですか」「事件の解決が早かったので騒がれなかったんですね」と素っ気なく口にする程度で、この時点ではさほど興味を示したようには見えない。ところが、同年4月に岡山の天満屋という百貨店で開催された防犯展において、津山事件のディテールに触れる機会を得た。横溝が回想するところでは、「銃殺、あるいは斬殺された血みどろの男女の死体の写真が、麗々しく陳列してあるのだから、眼を覆いたくなるような展覧会であった」(『真説 金田一耕助』)という。都井睦雄の例の襲撃時の扮装までも想像図で展示してあったというから、横溝の脳裏には強烈なイメージが刻みつけられたようだ。


 しかし、津山事件の詳細を知ったことで、それが直ちに『八つ墓村』へ結びついたわけではない。展示会を見た年の8月、横溝は東京へ引き揚げ、終の棲家となる成城に居を構える。翌年から『新青年』で『八つ墓村』の連載を開始するが、構想は岡山時代にあった。きっかけは、坂口安吾の『不連続殺人事件』である。雑誌連載時に真犯人を当てられるか挑戦状を付したことでも話題となった同作だが、岡山の農村にいたことから雑誌を入手できずにいたところ、知人から第3回までを送ってもらうことで、ようやく目を通すことが出来た。一読した横溝は、即座にこれはアガサ・クリスティの『ABC殺人事件』のトリックを複数化したものであることを見破った。それ以前から、農村を舞台にした大量殺人の小説を構想していた横溝は、それだけの数の人殺しをする動機を見つけられずにいた。しかし、『ABC殺人事件』を複数化すれば、それが可能であることを『不連続殺人事件』から見出したのだ。つまり、特定のターゲットを殺すことを隠密するために、あるキーワードを基に不特定に殺害することで、動機がわからなくなるというものだ。これによって、無関係な人々に対しても、それなりの手間暇をかけて凝った殺人を行う理由が生まれる。こうして横溝は、村を舞台にした小説の構想を一気に具体化させていった。


 このとき、横溝の最大の協力者となったのは、同じ集落に暮らす加藤一だった。彼は岡山県内の様々な学校で教職についた経験を持っており、横溝にそうした島や村の暮らしぶり、因習などを示した。『獄門島』も彼の教えを受けたことで細部が出来上がっていったものだ。同様に、『八つ墓村』も、横溝がそうした村はないかと尋ねたところ、加藤は伯備線の新見近くの村を挙げ、その村には鍾乳洞があると話したことから、横溝はイメージを膨らませていった。


 そして、『八つ墓村』を書き始める段になって、初めて横溝は「津山事件」をモデルとした設定を用いることを思い立つ。連載する『新青年』が、戦後は雑誌のカラーを変化させていたこともあり、幅広い読者層を意識した怪奇伝記小説のスタイルを取り入れるために、初回の発端部は村の歴史を紐解くところから語られることになった。その中で田治見要蔵による村人32人殺しが以下のように記されることになった。


 「その男は詰襟の洋服を着て、脚に脚絆をまき草鞋をはいて、白鉢巻をしていた。そしてその鉢巻きには点けっぱなしにした棒型の懐中電燈二本、角のように結びつけ、胸にはこれまた点けっぱなしにしたナショナル懐中電燈を、まるで丑の刻参りの鏡のようにぶらさげ、洋服のうえから締めた兵児帯には、日本刀をぶちこみ、片手に猟銃をかかえていた。村の人々はそれを見ると、だれでも腰を抜かさずにはいられなかった。いや腰を抜かさぬまでも、そのまえに男のかかえた猟銃が火をふいて、ひとたまりもなくその場に撃ち倒されてしまった」(『八つ墓村』角川文庫)


 まさに、都井睦雄のあの犯行時の扮装が、ほぼそのまま田治見要蔵に引用されている。現実と異なるのは、要蔵は事件後に山へ逃げ込んだものの行方知れずとなり、20数年経っても生死が定かではなく、村人は今も恐怖におののいていることだ。これが『八つ墓村』に通底する恐怖として物語を撹拌し続けることになる。


 しかし、横溝は津山事件について、改めて現地へ赴くことも、新聞記事を確認することもなく、前述の警察関係者の証言と、防犯展のみ――それも、その際に細かくノートを取っていたわけではなく、記憶のみで書き上げている。横溝にとっては事実がどうだったかを詳しく知るよりも、そこからイマジネーションを広げることが重要だったのだ。


 一方、『八つ墓村』を映画化する野村芳太郎と、金田一を演じる渥美清は、横溝とは全く逆のアプローチで物語の核心に迫ろうとした。津山事件の現場を金田一が訪れたとしたら? 


 彼らは、あれから39年が経とうとする事件の村へと足を踏み入れていった。



後編に続く


前編はこちらから



※参考文献は「後編」に一括掲載します。



1978年生。映画評論家。『映画秘宝』『キネマ旬報』『映画芸術』『シナリオ』等に執筆。著書に『映画評論・入門!』(洋泉社)、共著に『映画監督、北野武。』(フィルムアート社)ほか

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