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『八つ墓村』(77年版)横溝ブームに角川映画、時代の渦中で何が起きたのか?【そのとき映画は誕生した Vol.3 後編】

※資料(新聞広告):筆者蔵

『八つ墓村』(77年版)横溝ブームに角川映画、時代の渦中で何が起きたのか?【そのとき映画は誕生した Vol.3 後編】

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 2022年の3月に早逝した青山真治監督へ、「金田一耕助を撮るとしたら、誰を(キャスティングする)?」と尋ねたことがある。長らく未公開のままになっていた『こおろぎ』(06)という映画がDVDリリースされる際に取材したときのことだ。なぜ、唐突にそんなことを訊いたのかといえば、『こおろぎ』は山崎努が主演であり、青山監督はそれ以前に萩原健一の出演作を撮っていたことから、2人の共演作である松竹で映画化された1977年版の『八つ墓村』が話題に上ったからだ。


 また、取材した時期に青山監督がWebで書いていた日記には、金田一ものの映画をまとめて観ていることが記されており、東野圭吾原作の『レイクサイド マーダーケース』(04)というミステリー映画の秀作をフィルモグラフィに持つ青山監督の手による横溝正史原作の映画を観てみたいと思ったからでもある。


 青山監督は、市川崑監督によって映画化された『悪魔の手毬唄』(77)が一番良いと言いつつ、金田一役に誰を配役するかという筆者の質問に、「やっぱり、浅野(忠信)くんでしょう!」と答えた。劇映画デビュー作『Helpless』(96)以来、青山監督は『エリ・エリ・レマ・サバクタニ』(05)、『サッド ヴァケイション』(07)でも浅野忠信と組んでいる。たしかに浅野=金田一は、風貌や雰囲気からして申し分ない。それに、片岡千恵蔵も、高倉健も、中尾彬も、石坂浩二も、古谷一行も、西田敏行も、鹿賀丈史も、稲垣吾郎も、長谷川博己も、池松壮亮も、吉岡秀隆も、そして浅野忠信も演じることが出来てしまうのが金田一耕助というキャラクターなのである。もちろん、松竹版『八つ墓村』の渥美清も。


 後編では、1977年を迎えて、いよいよ本格的な撮影に入る『八つ墓村』と、同時期の爆発的な横溝ブームで次々と映画・テレビで映像化されていく横溝作品を見つめてみたい。



前編はこちらから

中編はこちらから



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金田一耕助、津山事件に挑む



 小説を映画化する際に行き詰まると、原作を解体することがある。例えば、市川崑監督は三島由紀夫の『金閣寺』を映画化した『炎上』(58)を、妻で脚本家の和田夏十らと共に脚色にあたったものの、三島の絢爛たる美文に翻弄されてしまった。そこで三島から執筆前に書かれた創作ノートを借り出し、それを基に原作を解体・再構築することで、脚色に光明を見出した。

 

 1976年8月にクランクインした『八つ墓村』は、全体の10分の1に満たない分量を撮影したところで中断し、翌年4月から本格的な撮影へ入ることになっていたことは既に述べたが、その間に『犬神家の一族』(76)をはじめとする映画や、テレビでも横溝作品の映像化が進んでいただけに、金田一耕助役の渥美清は、新鮮な金田一像を打ち出してきた石坂浩二、古谷一行を踏まえて自身がどう演じるべきか迷いがあったようだ。監督の野村芳太郎も、次のように語っている。


 「去年[引用者注:1976年]歩くシーンだけは撮って、芝居はリハーサルを二回くらいやったんですけれども、どうも渥美さん自身も自信がないっていうか、掴まらないし、ぼくも掴まらない」(『映画時報』77年6月号)


 そこで野村と渥美は、「津山事件」へ注目する。原作の源流をたどることで映画へのヒントを得ようとしたわけだ。野村は津山事件の現場を訪れる目的を、次のように語る。


 「渥美さんと二人で調べに行って、いろんな話を聞いてこようじゃないか。それで渥美さんとぼくが帰ってきたら、みんなが『渥美さん、三十人殺しってどんな話でした』って聞くでしょう。そしたら渥美さんは見てきたことをしゃべりゃいいんだ。これは聞いてる人は知らない話だし、渥美さんは見てきたんだから、自信をもって、あるいは自分の考えをしゃべる。一ぺんそれをやってみると、それが『八つ墓村』の役柄なんだ」(前掲書)


 この事件調査は、テレビ番組にもなっている。1977年4月25日に東京12チャンネル(現テレビ東京)で放送された『われらの主役 寅じゃないよ・渥美清』がそれで、『週刊TVガイド』(77年4月23日号)には、「昭和十三年岡山県津山市で実際に起きた三十人殺しを映画を離れて推理、実地検証する姿を中心に、寅さんから金田一耕助に変身をとげる渥美清の俳優像を描く」とある。『われらの主役』は1976年から始まった人物ドキュメンタリーで、市川崑、今村昌平、熊井啓をはじめとするベテラン映画監督たちが、各界で活躍する人物を取り上げるというもの。第1回からして吉田喜重監督×萩本欽一という異色の顔合わせである。


 もっとも、映画畑の監督たちを起用してみると、凝り性の監督が多く、多忙なスターと組ませようとすると、どうしてもスケジュールが押してしまう。番組がスタートしたときには次回放送分がまだ撮り終わっていない――つまりはストックが1本もない状態で、綱渡りのような放送が続いた。当初、予定されていた斎藤耕一×岸恵子、佐藤純彌×篠山紀信、今村昌平×水上勉などは、スケジュールの問題で取りやめとなり、松本清張、松下幸之助らを取り上げる企画も、日程が合わなくなってしまった。『犬神家の一族』を撮影中の市川崑も長嶋茂雄を取り上げることになっていたが、東宝撮影所が休みにはいる1976 年7月28日〜8月1日に撮影を行う予定が、スケジュールが合わなかったために延期されている(後に撮影が行われ、1977年1月3日に放送)。


 同年12月6日放送分では、新藤兼人が監督した『われらの主役 犬神家の一族の横溝正史』が放送されている。番組開始時から、この組み合わせは決まっていたが、新藤は横溝の全集を購入して読破後に取材へ入る力の入れようで、横溝のもとへ新藤が訪問したのは10月29日になってからだった。翌月4日より成城の横溝邸で撮影が開始されたが、「非常によき人柄のうえ、自分のものを実によく読んでくれているので、万事このひとのいうがままになろうと決心」(『真説 金田一耕助』)と日記に記すほど横溝は新藤に心酔し、11 月5、6日も成城の自宅でインタビューを受け、撮影を終えた。後に放送を見た横溝は、「自分をちっとも動かさず、しかもよく出来ているのに感心」(前掲書)と感想を記した。


 その後も、ブームの渦中だけあって横溝に絡んだ回が多く見られる。1977年6月27日には、市川崑による『われらの主役 金田一登場・石坂浩二』が放送され、『獄門島』の撮影風景や編集作業を折りこみながら、その合間に石坂へインタビューを行う姿が映し出された。


 そうしたなかで、『われらの主役 寅じゃないよ・渥美清』は、それまでの番組とは異なる『八つ墓村』のプロローグといえる1本になったとおぼしい。この回の演出は野村芳太郎が手がけたため、『八つ墓村』の製作準備とリンクさせることが容易だったからだろう。残念ながら映像を見ることは叶わなかったため、当時の新聞雑誌の番組紹介欄や、『平凡パンチ』(77年4月25日号)に掲載された渥美=金田一による現場報告を突き合わせて、彼らが津山事件の現場でどんな行動を取り、何を見たかを再現してみよう。


 因美線の美作加茂駅に降り立った渥美と野村は、四方を山で囲まれた白銀の世界を目にする。町役場で助役と面会して事件について尋ね、役場に勤めるT氏をガイド役に立てる。T氏は村人30人を殺害することになる都井睦雄と幼い頃に遊んだこともあり、小学校時代の睦雄が成績優秀だったことや、事件当夜の出来事など生々しい証言を口にする。そして、車で事件が起きた集落へと入っていく。渥美は、「もしこの村で起きた事件を知らなかったら、ほんとうに平和で明るい村だな、と思う以外にはない、のどかさ」という印象を抱く。


 この集落で暮らす老婆が3、4人顔を出すが、敬遠されている感覚を渥美は受ける。「なんとか忘れようと思っているのに、この人たちはまたもやほじくり返しに来たのか――おばあちゃんたちの表情は、そういう感じ」。


 最初はなかなか話してくれなかった老婆たちも、「この話の基となった事件の重みを、金田一耕助という役柄をとおして、観客に訴えるつもりでいる」という渥美を前にして、少しずつ語り始める。『スポーツニッポン』(77年3月14日)では、このとき渥美が探り出した新事実として、以下の項目を挙げている。


 「①事件の起こった時、竹を割るような物音がして、村人は何かが起こったことを知っていた②その時足を撃たれた女性が弾丸を記念に持っている③犯人が山越えして逃げる時の道を発見したのは狩人で、山の霧が一筋割れているのを見て、その道を追っていったら、犯人の自殺現場にぶつかった―など」


 渥美は、睦雄が自決した山の頂にも足を運んでいる。肺結核のために疎外されたことが事件の動機の1つと見られているが、渥美自身も若き日に結核を患っていたことがあり、睦雄に同情を寄せた。退院した渥美が近所の煙草屋へ電話を借りに行くと、店員が顔色を変えて逃げ出そうとしたことがあった。肺病をうつされると思い込んだのだ。渥美は、睦雄の心情を次のように推理する。


 「おそらくこの男は淋しかったんでしょうね。姉さんが嫁に行ってしまったり弟が別に暮していたり、そんなことがなかったらこの犯罪も起らなかったんじゃないかと思います。大勢の人を殺したあと山へ逃げ込んだのも、山の向うには嫁に行った姉さんがいるっていうこととも関係があったんじゃないでしょうか。鉄砲の引き金に足の親指をかけて自殺したこの男が最後に見たものは何だったのか」(『週刊明星』77年5月15日号)


 横溝は現実の津山事件と『八つ墓村』が同一視されないように、村の位置を変えるなど、慎重に別のものであることを示してきたが、映画では逆に、津山事件と『八つ墓村』が限りなく同一視されるように仕向けられている。番組の中で渥美は金田一として振る舞い、津山事件を金田一が追うという構成になっていることからも、それは明らかだろう。そして、渥美=金田一は、「このあたりには、毛利と尼子の戦いをめぐる遺跡がゴロゴロしている。悲しい話はいっぱいあるはずだ。尼子の落武者8人を殺したという話も、ひょっとすると本当にあったことかもしれない」と、津山事件と『八つ墓村』を接続し、調査で得た奇妙な話を語り始める。


 「ボクがこの村で小耳にはさんだことでも、妙な話があった。誰かが山伏を殺して、その祟りが、30人殺しとなったのかもしれない、というのである」


 これが事実なのかはさておき、『八つ墓村』から津山事件へと還流させることで、現実の事件と創作は混在化されていく。映画『八つ墓村』が、原作からかけ離れて、祟りが現実のものであるという構造だったことを思えば、渥美は意図的に両者を結びつけたとおぼしい。この現地調査は、『八つ墓村 特報 NO.3』でも目にすることが出来る。神妙な面持ちで語る姿に、『八つ墓村』の終盤で事件の謎解きを行う場面の原型を見つけることができるだろう。


 野村が意図したとおり、自分が目にしたものを具体的に話す渥美の口ぶりからは、もう迷いは見えない。観客もまた渥美の口跡の良さに、つい話に聞き入ってしまう。それこそが、石坂浩二とも古谷一行とも違う渥美清の金田一耕助である。





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