松竹vs.角川映画
日本映画に大作ブームが到来した1977年秋は、頂上決戦とでもいうべき大激突が起きた。9月23日にロードショー公開される松竹の『八つ墓村』と、10月8日公開の角川映画『人間の証明』がそれである。
元来、『八つ墓村』は松竹が企画し、角川が提携を持ちかけていた作品である。上手くいけば、当時、角川書店の専務だった角川春樹が宣伝を陣頭指揮する角川映画の第1作になっていたはずだった。その顛末は本稿の前編に記したが、やがて春樹は角川書店の社長となり、映画製作などを行う角川春樹事務所を立ち上げ、その第1作に横溝正史原作の『犬神家の一族』を選んで東宝の配給によっていち早く公開したのは、松竹への意趣返しという意味合いも大きかった。1975年秋から翌秋へと公開が延期されていた『八つ墓村』と直接対決するつもりで、春樹は同じ横溝原作の『犬神家の一族』を同時期に公開しようとしていたのだ。しかし、松竹は再び公開を1年延長したため、1977年に至ってようやく決戦の日がやってこようとしていた。
両者のただならぬ関係を、敏感な観客は気づいていた。『犬神家の一族』のキャンペーンで大阪を訪れた春樹は、「松竹が渥美清で『八つ墓村』をやるというけれど、渥美さんはどう見たって金田一耕助というイメージじゃない」(『週刊サンケイ』76年10月28日号)と平然と言い放っていたからだ。映画によって角川文庫の『八つ墓村』がさらに売れると予想されたにもかかわらず、その足を引っ張るようなことを言うのだから異常な状況である。
また、角川文庫では、角川映画に限らず他社で映画化、TVドラマ化された際にも、それを告げる帯が新たに付けられたが、どういうわけか1977年春の時点では、『八つ墓村』には映画化の帯が付いていなかった。同年4月7日の『報知新聞』では、その疑問を角川に問い合わせている。おそらく答えたのは春樹と思われるが、以下のようなものだった。
「ああ、あれね。うっかりしてたんですよ。でもホントにやるのかなあ、松竹は。この三年間やるやるといい続け、何回もスッポカされてきたし、配本その他でいいかげん恥をかきましたからね」
この年の秋に公開されることをまるで信用していない口ぶりだが、間もなく、『八つ墓村』の文庫には、「松竹映画化決定!」という帯が付き、裏表紙側には古谷一行の「横溝正史シリーズ」のラインナップが掲載されるようになったものの、他の映像化された横溝作品に較べても、角川との関わりの薄さは目立った。
角川と松竹が険悪な状況にあることは、『八つ墓村』以外の作品で露見することになった。被害を受けたのは、郷ひろみである。この時期の郷は、松竹映画『さらば夏の光よ』(76)、『おとうと』(76)など、みずみずしい青春映画の秀作に相次いで出演していた。これらの作品でコンビを組んだ監督の山根成之は、それ以外にも『パーマネント・ブルー 真夏の恋』(76)などの傑作を撮っており、映画ファンから次回作が待望される監督の一人だった。
このゴールデンコンビが1977年に撮影を予定していたのが、郷と秋吉久美子の主演で片岡義男の原作を映画した『彼のオートバイ、彼女の島』だった。これに同じ片岡原作の『スローなブギにしてくれ』を足して映画化するという企画で、ジェームス三木の脚本も書き上がっていた。ゴールデンウィークの公開が決定し、前売り券、ポスターも印刷され、予告編もフィルム100本が焼き増しされて劇場にかけるのを待つばかりとなっていた。
ところが、この時点で映画化についての許諾は、片岡との間に〈口約束〉で済ませていただけだった。これは日本映画界の悪しき慣習というべきもので、口頭で原作者の了承を得ていれば映画化を進めてしまい、契約書は後から交わすことが多かった。この作品でも、ロケハンに入る寸前の3月16日になって契約書を作り、角川春樹事務所へ持参したが、そこで意外な展開を見せることになった。山根が、その経緯を語っている。
「いざ製作発表する土壇場になって角川春樹事務所から横ヤリが入ったんですよ。でも契約のハンコを交わしている訳ではないから勝てっこないのですが、口約束だけは貰ってあったんですけどね。(略)『スローなブギにしてくれ』は角川でやりたいということだったのです。一種言い掛かりみたいなものを要求されて松竹側としてはのめない条件をつきつけてきた訳です」(『MOVE MAGAZINE』12号)
のめない条件について山根は明かしていないが、『報知新聞』(77年4月7日)が報じるところでは、このとき、角川と松竹で駆け引きがあったという。山根が角川春樹事務所を訪れてから数日後、今度は春樹が松竹会長の城戸四郎を訪ねた。用件は2つあった。1つは、9月に新橋演舞場で予定されていた岡田茉莉子の芸能生活25周年記念の特別公演で、『人間の証明』を上演して欲しいというもの。角川映画第2弾となる『人間の証明』はすでに岡田の主演が決定しており、映画の公開と同時に同じキャストで舞台版を上演しようというわけだ。それからもうひとつ、渥美清を映画版の『人間の証明』に出演させたいから貸し出して欲しいと春樹は求めた。
この2つの申し入れを、城戸は一蹴した。映画界の常識で考えても、同時期公開の『八つ墓村』にメインで出演する渥美を、『人間の証明』に貸し出せるわけがない(ハナ肇が演じた松田優作とコンビを組む老練の刑事役が似合いそうだが)。もっとも、その常識を破るのが角川映画だったが(ただし、後年の春樹は、渥美への出演交渉を否定している)。
会談が決裂したことで、角川側は映画化の予定があると理由をつけて、松竹で映画化しようとしていた『彼のオートバイ、彼女の島』『スローなブギにしてくれ』の原作は渡せないということになった(事実、角川映画で後年映画化されている)。結局、山根は『彼のオートバイ、彼女の島』のキャストはそのままに急遽、代わりの企画として『突然、嵐のように』を作ることになり、短期間の準備で乗り切ることになった。
作品変更による突貫作業中の山根は、「やたら角川事務所が憎いですね。三日か四日寝ずに書いた脚本ではうまくいかんですよ。始まれば充分な直しなんかできませんからね、余裕のない中で作っていくのだから」(前掲『MOVE MAGAZINE』)と、やり場のない怒りを見せたが、大作映画の影で山根×郷コンビの可能性が潰された事実は忘れてはなるまい。
角川との会談を終えた城戸は、それから1か月もしない4月18日に急逝するが、松竹のベテラン編集者である杉原よ志は、『人間の証明』をめぐって晩年の城戸が反省の弁を述べていたと証言する。
「あれは一代の痛恨時だったみたい。(略)自分一人の見解で断って、申しわけないって言ったって。これからは絶対自分独断でそういうことはしないということを誓って、みんなの力をかりたいと言って、すごく終わりには好々爺だったみたい」(『個人別領域別談話集録による映画史体系』)
伝聞なので全てを信用するのは危険だが、城戸が謝っているのは舞台版『人間の証明』の件と考えられるが、ひょっとすると、角川から映画『人間の証明』の興行について打診を受けていたのかもしれない。というのも、同作は東映洋画部の配給で、東宝と東映の系列劇場を中心に興行するという従来の映画興行をひっくり返す奇策へ出ただけに、松竹にも相談が持ちかけられていても不思議ではないからだ。『八つ墓村』の一件が、角川映画と『犬神家の一族』を誕生させ、『人間の証明』では東宝・東映と組んだことで、今後の日本映画のキャスティングボートを角川映画が握ることが決定的となっただけに、角川をめぐる度重なる失政を、城戸は認めざるを得なかったのではないだろうか。