32人殺しの美学
1976年8月から撮影に入った『八つ墓村』だが、大部分の撮影は翌年4月以降に行われていた。通常の映画よりも長い撮影期間が取られていたとはいえ、監督の野村芳太郎が「一年間かけているけれども、外の絵を見せるのは、去年の八月に撮った部分と、あと梅雨があけて七月二十日から八月の半ばにかけて集中しているわけです」(『映画時報』77年6月号)というように、夏の物語だけあって、外で撮影されたのは、実質2か月強にすぎない。それ以外はスタジオのセットと、全国各地の鍾乳洞の中へ籠もっての撮影となった。
1977年4月20日から1か月に及ぶ大船撮影所でのセット撮影を行っていた時期は、隣のスタジオでは、斎藤耕一監督が野口五郎の主演で『季節風』(77)の撮影を行っていた。萩原健一は、かつて斎藤の『約束』(72)に助監督として参加する予定が、急遽主演となった経緯もあり、不慣れな大作映画の現場よりも、勝手知ったる斎藤の現場へ顔を出すことが少なくなかった。『近代映画』(455号)には、大船撮影所で撮影の合間に歓談するショーケンと野口の姿が写されている。
この『季節風』に見習い助監督として参加していたのが、後に松竹へ入社して一時代を築くプロデューサーとなり、やがてクーデター騒動で追われることになる奥山和由である。以前、筆者が行ったインタビューで、奥山氏はこの時の出来事を語っている。
「ちょうど大船撮影所で助監督をしているときに、『八つ墓村』の撮影をやっていました。食堂に行くと萩原健一がいて、山本陽子も小川真由美もいて、野村芳太郎が偉そうに座ってる(笑)。その時に、ラッシュを見るとかでスタッフが試写室にゾロゾロと入っていくから、何食わぬ顔をしてついていったんですよ。それは特報のラッシュで、戦国時代に落武者が槍でズタズタにされて生首が並んでいる中で夏八木勲さんの生首が笑うっていう場面だったんだけど、これが結構良かったんです。この迫力がちゃんと本編に反映されるなら最高の商品が出来るから、これは当たるよなって思ったけど、なんか出来上がった映画は違ったよね。山崎努さんが村人を殺すインパクトは強かったけれども。だから俺はこの後、村人の大量殺戮だけに絞った『丑三つの村』を作るんですよ」
村人の虐殺シーンのみを評価するところが、松竹では珍しくバイオレンス映画に傾倒し、北野武、深作欣二をプロデュースした奥山らしい。事実、後年製作された『丑三つの村』(83)は、まさに津山事件そのものを描いた凄惨な映画となった。
それにしても、山崎努が演じた村人32人殺しは、強烈な印象を今も観客に刻みつけている。『八つ墓村』というと、桜吹雪を背景に鬼の形相で画面の手前に向かってスローモーションで駆けてくる姿が忘れがたいという人は少なくない。
この村人32人殺しのシーンは、女性、老人、赤子も含めた村人を容赦なく次々と殺戮していく光景が延々と続くことに呆然としてしまうが、なぜ、ホームドラマを得意とする松竹がこんな壮絶なシーンを作ってしまったのか。原因は原作というより、脚本にあるのではないかと思えてくる。本作の脚本は活字化されていないため、橋本忍による村人惨殺シーンがどう書かれていたのかを以下に引用してみよう。
S71 あるどこかの洞窟
眼球を二つ爛々と光らせ、ダ、ダ、ダツ、ダツと不気味な足音の反響で、怪物が近ずいてくる。
多治見要蔵――鉢巻をし、頭には二つの懐中電燈、胸にも自転車用のランプ、左の腰には日本刀、右肩に猟銃、胸には十文字に猟銃の弾帯で、嵐のように走り抜ける。
× ×
村の川上洞の入口。
夜明けの闇へ怪物が飛び出してくる。
早立ちで奥山へ炭を焼きに行く用意の村の者が二人、吃驚し立ち止まっている。怪物はどんどん近ずいて、日本刀で一人を斬り倒し、あとの一人が夢中で逃げ出す。
要蔵、猟銃を外して構えダアーンと撃ち、村人が倒れる。
× ×
(中略)
× ×
八つ墓村。
夜明けの闇を怪物が走つて来て一軒の入口の戸を猟銃で叩き割り、蹴飛ばして飛込み、驚く人々を一人二人と殺して飛び出し、また次の家へ飛込む。
中には一家全員女子供まで惨殺される家もある。
しかし、その殺戮は一軒一軒順序立てたものではなく、無差別に一、二軒飛ばしたり、中にはかなり走つて集落の一軒へ飛込んだり、出てきてまた走つたりだ。
人だけではない、飼つている牛が続けざまの銃弾に倒れ、驚いて飛び出して来た人々は、眼球二つの怪物に肝をつぶして逃げ出すが、怪物は疲れを知らないもののように追いすがつて斬殺し、さらに遠くへ逃げる者を銃弾で倒し、銃声が山々へこだまする。
怪物、猟銃を振りかざし、得意絶頂にアハハハハ! と哄笑し、今や死の村と化しつつある次の家へ猛然と走り始める。
橋本が書いた32人殺しのト書きは、原作と比較しても細かく書かれている。最初は「要蔵」と書かれていたものが、後半は「怪物」になるところも、イメージを一段と喚起させる。この脚本を渡されたら、野村芳太郎をはじめとして熟練のスタッフたちは、培った技術と殺しの美学を総動員して残虐描写に打ち込むに違いない。
しかし、映画の該当シーンと比較すれば、まず、桜吹雪の中を要蔵が駆け抜けるカットが脚本には書かれていないことが分かる。このカットは神奈川県の厚木で撮影されたもので、大船撮影所にあるレールを全て持ち出し、縦構図と横構図で移動撮影が行われた。それぞれハイスピードで撮影されており、撮影を担った川又昂は、これを自身のベスト・ショットに挙げ、「商業映画として、いちばん観客をよろこばせることができたのは、音楽効果も素晴らしかった『八つ墓村』の桜並木のシーンかもしれません」(『映画撮影とは何か キャメラマン四〇人の証言』)と語っている。
以前、筆者が『キネマ旬報』で萩原健一追悼特集のために山崎努氏へ取材した際、この場面の話になったことがある。氏は、「僕もあの殺しは――連続殺人は印象に残ってますよ。秦野の病院の庭かなんかで桜吹雪のところを走ってくるシーンを撮ったんだけど、あれは綺麗だったな。顔を白塗りにするのは僕が提案したんだけど、デタラメをやってたね」と、懐かしそうに語られていたことを思い出す。
この一連の場面は、桜吹雪のカット以外には、家屋へ要蔵が侵入して村人たちを殺害するカットを大船撮影所のセットで、屋外で逃げ惑う人々を刀と銃で仕留めていくカットは、滋賀県長浜市余呉町鷲見の集落で撮影された。茅葺屋根の連なるこの集落は、後に『丑三つの村』のロケ地にもなり、結果として津山事件と八つ墓村を結びつける場となった。
脚本とそれを基に撮影された映画を比較すると、32人殺しの場面に関しては、400年前の落武者惨殺シーンと同じく、明らかに映画の方が過剰である。寝ている乳児を刀で躊躇なく真上から刺し、さらに音声を早回しにして、乳児が唸り声を上げるところをわざわざ描いたり、生きた老婆を井戸に突き落とし、さらに井戸の底にめがけて狙撃して息の根を止めるといった執拗な描写は、脚本には書かれていない。おそらく野村芳太郎とスタッフ、そして山崎努が脚本から喚起されたイメージを過剰に上乗せすることで、いまだに語り継がれる名シーンが生まれたに違いない。
ところで、この32人殺しには、『犬神家の一族』のヒロインも顔を出している。島田陽子である。5月8日、大船撮影所の多治見家セットでは、要蔵が自邸で妻を斬りつけるという、32人殺しのきっかけとなる場面の撮影が行われた。
島田の名前は、キャスト発表でも明かされていなかったが、これは島田からの希望で、ノーギャラ、ノークレジットによるカメオ出演となった。5月9日の『日刊スポーツ』には、「いいんです。“砂の器”でお世話になったお礼ですの」という島田のコメントと、「島田クンはうまくなったね。あのギャッという声はなかなか出ないもんだよ」という野村のコメントが載っている。