『八つ墓村』第二次撮影開始
1977年4月2日は、横溝ブームを象徴する1日だったかもしれない。
まず、角川映画から離れて東宝の単独製作となった市川崑×石坂浩二による金田一シリーズ第2弾となる『悪魔の手毬唄』がこの日、公開初日を迎えた。『犬神家の一族』の大ヒット(配給収入15億5,900万円)を受けて慌ただしく作られたにもかかわらず、前作を上回る完成度と評判も上々で、最終的な配給収入は約7億5千万円を記録した。
一方、テレビでは、この日の夜10時から1時間枠で「横溝正史シリーズ」がスタート(毎日放送系)。最初の作品となる『犬神家の一族』は全5回で放送され、以降半年の間に『本陣殺人事件』『三つ首塔』『悪魔が来りて笛を吹く』『獄門島』『悪魔の手毬唄』を各3〜5回(後に『悪魔の手毬唄』のみ急遽全6回へ延長)で放送されることになる。一気呵成に見せる映画に比べると不利なのではないかとも言われたが、蓋を開けてみれば、『犬神家の一族』の第1回視聴率は、関西では40.6%(ニールセン調べ)、という驚異的な数字を叩き出した。映画、テレビ共に金田一耕助は人気絶頂にあったと言って良い。
これらの作品が企画される遥か前から準備されていた松竹の『八つ墓村』は、4月20日に昨秋以来となる撮影再開の日を迎えた。初日は、尼子一族の落ち武者を、村人たちが酒宴に招き、油断させた隙に惨殺する「シーン51 鎮守の森の広場」である。
大船撮影所の約700平方メートルのステージいっぱいに組まれた鎮守の森の広場には、大きな社や杉の大木が設置されている。スタジオの中央に設えられた舞台では、神舞、お多福、大蛇退治の舞が披露され、8人の落武者たちは振る舞われた酒に毒が入っているとも知らず、上機嫌に酔いながら、それを見ているというシチュエーションである。400年前の備中神楽の音楽を甦らせるために、東京藝術大学教授の小泉文夫が再現の時代考証を指導し、舞も花柳流の門下生が担っている。
こうした絢爛たるセットの中で15時間に及ぶ撮影が続き、いよいよ油断した落武者たちを、共謀した村人が襲う場面となる。以降の展開を、橋本忍は脚本にこう書いている。
S51 鎮守の森の広場
(前略)
鎮守の森の広場。
八束の剣を抜いた若い村総代の庄左衛門、いきなりもがき苦しんでいる尼子義孝に斬りつける。義孝、身をかわそうとするが、体が自由にならず、肩先を斬られる。
手名槌、足名槌、いや、稲田姫までが面を飛ばし、刀を抜いて集まる。村の男達の動きは早い、人混みのうしろへ運んでいた竹槍がまたたく間に手に渡り、ギラギラ眼を光らせ、もがき喘ぎ、苦しんでいる八人を押し包む。
八人は、武器は持たず、その上毒酒を飲まされ、いや、なにより彼らは村人達を全く信じ切ついていた――。
まるで罠へ落し込んだ獲物を狩るように、刀で斬り、竹槍を突き刺し、またたくまに村中の者が八人を殺してしまう。
箐火に照らされたその広場の惨状。
首謀者の四人、庄左衛門と他の三人が義孝の首を挙げるべく近ずく。
と、義孝がノロノロ立ち上がり、広場の全員がギヨツとなる。
義孝、刀や槍で全身が血まみれ、いや、恐ろしいのはその顔だ。毒酒のため半分が紫色に腫れ上がり、見るも恐ろしく凄まじいその恨みの顔付。
義孝「お、おのれ卑怯な欺し討を‥‥タタツてやる、末代までタタツてタタツてお前らの縁につながるこの村の者は、一人残らず皆殺しにツ!!」
庄左衛門「(憤怒のような形相で)タタれるものならタタツて見ろツ!」
飛びかかるようにして刀をキラめかせ、義孝の首が宙を飛び、奔流のような血が箐火の炎に画面一杯赤味を帯びてドス黒くなる。
流石、『羅生門』(50)、『切腹』(62)の脚本家というべきか。原作では、山の炭焼き小屋にいた落人を取り囲んだ村人が枯れ草に火を放って退路を絶った上で、山刀や竹槍で襲うというものだったが、橋本は祭りの場を設定し、映画的なスケールを付加させて惨殺場面を作り出している。ト書きを読むだけでも重厚さと鮮やかさに惹きつけられるが、橋本が最も力を入れて書いた場面ではないかと思えてくる。
しかし、実際に撮影されたこの場面は、明らかに脚本よりも描写が過剰化している。なにせ、頭、手、胸を鎌で刺し、それをギリギリと引き裂いたり、竹で眼球を突いたり、一刀のもとに斬られた田中邦衛の首が飛んで、村人の腕を噛んだりと、残酷描写が連続する。同時代の『キャリー』(76)、『オーメン』(76)などの影響もあったのだろうが、脚本にはここまでの描写は指定されていない。遂には、野ざらしにされた落武者の生首が雷雨の中で目と口が開く(!)という、もはやミステリ映画ではなく、オカルト映画であることが明白となるカットまであるが、こんな場面も橋本は書いていない。いずれも野村の演出によって付け加えられたものだ。
このシーンに続いて撮影されたのは、落武者殺しの首謀者である多治見家の祖先にあたる庄左衛門が発狂し、自らの首を跳ねる場面である。橋本功が演じた庄左衛門が、八つ墓明神の縁側に腰掛け、刀を舐め回していると、不意に刀を自らの首にあてる。
『東京中日スポーツ』(77年4月28日)は、このときの撮影を次のようにレポートしている。「電気をショートさせて雷を鳴らし、大型扇風機二台で風ジンを巻き起こさせる。一瞬の静寂。妖気がスタジオ内に漂う。刀が首に食い入る。血しぶきが、ピュッと二本上がる。首から深紅の血があふれる。間髪を入れず、首がコロリと落ちて、ころがる」。
記事の中では、この撮影トリックが明かされている。といっても、途中で橋本と人形が入れ替わっただけの話だが、撮影の見事さもあって、編集されると本物の首が切断されたかのように見えてしまう。この撮影について野村は、同紙で「“殺しの美学”ですよ」と語り、「瞬間の感覚で観客をアッと思わせる。一種の動物的な反応、それが映画です」と自信を見せている。つまり、横溝の原作や、橋本の脚本からも逸脱する描写は、観客を驚かせるために野村が確信的に行っていることを示唆している。
1977年4月20日から撮影に入った『八つ墓村』は、翌月にかけて松竹大船撮影所の12のスタジオのうち、6つを同作のセットが占めるなかで進められた。なかでも最大規模をほこる第1スタジオには、時代劇の荘重な屋敷を思わせる多治見家のセットが組まれていた。間口が7〜8メートルはあろうかという玄関、そこから続く長い廊下が40メートルにわたって伸びており、大作映画に相応しい豪華な作りになっていた。
多治見家の外観は、本稿の前編でも記したように、岡山県高梁市成羽町の広兼邸が使用された。城を思わせる石垣といい、多治見家の威容を示すのに相応しい構えを持つ屋敷である。広兼邸は一般公開されているので敷地内に入ってみると分かるが、映画に出てくる屋敷ほどには広くはない。屋内は全てセットで撮影されたものだ。
野村はセットについて、「この映画では、豪華なふん囲気も一つの見どころにしたいので、できるだけぜいたくをさせてもらっています。金をかければ必ずそれだけの効果は生み出せるものですが、それだけに私の責任も重いですよ」(『毎日新聞』77年5月11日・夕刊)と、時間と金をかけて大作映画を作る意気込みを語っている。
多治見家のセットでは、まず美也子(小川真由美)に案内されて八つ墓村にやってきた辰弥が、出迎えた義姉の春代と共に多治見家の玄関から廊下へと歩いていくカットが撮影された。続いて登場するのが、双子の老婆、小梅と小竹である。
似た顔付きの2人をキャスティングしたとはいえ、小竹を演じた市原は当時41歳。老婆に見せるためのメイクには7時間かかった。撮影の前日からスタジオの近所に泊まってもらい、午前7時からメイキャップを開始し、午後2時になって、ようやく小梅と小竹の場面が撮影できるという時間のかかるものだった。しかしながら、着々と撮影は進み、2 年越しの撮影がようやく軌道に乗り始めた。