鍾乳洞とコウモリ
1か月でセット撮影は終了し、5月20日から6月末にかけては、全国各地の鍾乳洞を舞台にした縦断ロケが始まった。鍾乳洞だけで1か月もの時間をかけるのは、脚本が出来上がってみると、重要な芝居が鍾乳洞の中へ予想以上に盛り込まれていたため、野村が「そのイメージがセットではとても出しきれない」(前掲『映画時報』)と判断したからだ。そこで全国9か所の鍾乳洞でロケを行ってつなぎ合わせていくことで、壮大な地下世界を描こうとした。
鍾乳洞ロケの口火を切ったのは、5月21日から5日間かけて撮影が行われた岩手県気仙郡住田町の滝観洞。1975年秋のロケハンで、撮影の川又昂が東北地方のロケハン中に見つけたもので、数年前から観光名所となっていたが、洞窟の入口は狭く、狭い通路をたどって奥へ進んでいかねばならない。ここでスタッフ、キャストは鍾乳洞ロケの困難さに直面する。
まず、照明の問題があった。ショーケン、小川真由美、山本陽子が懐中電灯を手に鍾乳洞を進んでいくが、わずかな明かりで撮影可能な現代のデジタル撮影と異なり、フィルムではきちんとライティングしなければ映らない。それを見越して、本作では松竹では初となるパナビジョン方式が採用された。これはアメリカのパナビジョン社による高性能レンズで、撮影助手の木村隆治は、「明るさ、解像力、シャープさにおいて抜群である。まるで彫刻刀で浮き彫りにしたような質感を与える。特に暗部の描出が非常によく、セットの片隅の一部でも手がぬけない」(『映画テレビ技術』77年11月号)と評したが、それゆえに鍾乳洞の光をどう作り込むかが課題となった。
野村は鍾乳洞の照明について、前掲『映画時報』で「懐中電灯を持って歩いているのに、ちょっとも周りが懐中電灯の明かりを受けつけないと、暗がりという印象が全然出ませんね」とライティングの難しさを語っているが、現場ではミニブルートライト(ライブ会場で客席に向けて光を照射する際に使用されることが多い)の周囲の囲いを外し、650Wの電球1個に大中小の円筒を付けることで懐中電灯の明かりとした。
もっとも、奥深く洞窟が広がる中に照明を配置しようとすれば、ジェネレーターから送電する必要がある。鍾乳洞の撮影では毎回、洞窟の外のジェネレーターから送電コードを這わせて照明が使用できるようにしたものの、200〜700メートルにわたってケーブルでつなげていくと、100ボルトを送電しても、途中でドロップ(電圧降下)してしまい、使用するときには70ボルトに落ちてしまう。そこで60キロワットのジェネレーターから130ボルトで送電し、ドロップに対応することにした。
俳優たちも鍾乳洞には悪戦苦闘することになった。滝観洞では、入口から約100メートル進んだところから撮影が開始されたが、ショーケンは「こう穴ぼこばかりではたまらん。旅館のおねえさんに“どこかアナ場ない?”と聞くと、“そこにあるでしょう、滝観洞”なんてからかわれるし……」(『日刊スポーツ』77年5月26日)と愚痴るほど、約50人のスタッフと共に午前中は3時間、午後は5時間にわたって穴に籠もって撮影に臨んだ。
ショーケンは滝観洞でのロケを終えて帰京して間もない5月29日、砧の東宝撮影所で、この年発売されたアルバム『Nadja-愛の世界-』のキャンペーンを兼ねた無料ライブを開催している。ライブ会場ではなく、撮影所で行ったのは、「ショーケンのためには都内の劇場より、こうした場所が似合う」(『スポーツニッポン』77年5月30日)という意見があったためで、書き割りに風景が描かれ、撮影用のクレーンが置かれたスタジオでライブを行うという異例のものとなった。缶ビールを片手に特設ステージに上がったショーケンは軽く頭を下げて中央の椅子に座り、『男の風景』に始まり、1時間半にわたって全11曲を歌った。来場者は1,000人超。この模様は撮影もされており、7月19日の渋谷公会堂を皮切りに全国100か所でフィルムコンサートが行われることになっていた。
一方、金田一耕助は北海道にいた。『八甲田山』を撮り終えた高倉健が主演する山田洋次監督の『幸福の黄色いハンカチ』(77)のロケに渥美清が参加したのだ。車8台を連ねて道内の各地でロケを行っていく同作に渥美が合流したのは5月17日。人情に厚い警官役で、出所間もない役どころの高倉が警察署へ連行されたところに助け舟を出す。新得警察署のロケでは制服姿に髭をつけた渥美が登場したが、雨のために撮影は延期された。
この年、渥美はテレビで刑事役を演じた『時間よとまれ』が7月に放送されることになっており、翌月には『男はつらいよ 寅次郎と殿様』、年末には『男はつらいよ 寅次郎頑張れ!』の公開が控えていた。その合間の8月に『八つ墓村』で渥美が出演するパートを撮りきることになっており、休む暇もない忙しさだった。なお、高倉も『悪魔の手毬唄』(61)で金田一を演じたことがあったが、1本きりで終わっている。このとき、高倉と渥美との間で金田一の話題が出たのかは定かではないが、高倉は「どんな役でもまじめに一生懸命やっている数少ない俳優だ」(『スポーツニッポン』77年5月20日)と渥美を評した。
鍾乳洞ロケは、岩手に続いて満奇洞(岡山)、秋芳洞(山口)、水連洞(鹿児島)をはじめ、全国を縦断する撮影が続いた。これは、それぞれの鍾乳洞の特徴を活かしたものでもあった。天井が高いのは岩手、天井が低く横に広いのは山口など、それぞれの特色に合わせて鍾乳洞の場面が割り振られた。
水連洞は鹿児島沖永良部島にある鍾乳洞で、撮影の前日にはスタッフ36人が1日がかりで電源ケーブルを660メートル奥まで敷く作業が行われた。ここでは黒革のコートをはおった美也子が、村人から逃れて鍾乳洞に身を隠す辰弥を献身的に介護する場面や、2人が鍾乳洞の奥へ奥へと進んでいくカット、やがて、すさまじい形相となった美也子が水しぶきをあげながら辰弥を追いかける場面を中心に撮影された。
美也子の表情が、この世ならざる者へと変貌する様子を、橋本忍は脚本に「形相が見る見る変り、頭の毛が全部逆立つてくる」「火のような荒い呼吸、口が裂け、まるで炎でも吹き出しているような形相」「顔には凄い隈――毒酒で紫色に腫れ上つた尼子義孝と同じ顔になる」と記したが、さて、これを具体的に映像で見せるには、どうするか。
野村は「歌舞伎の隈取りではありきたりだし、下手をするとお岩さまのように醜悪になるし」(『報知新聞』 77年12月16日)と悩んだが、そのとき、数年前に地下鉄の中吊り広告で目にしたパルコのポスターを思い出した。それが山口はるみのイラストだった。野村は400年に渡る怨霊のメイクアップ・イメージを描いて欲しいと依頼し、山口も一風変わった依頼に好奇心をおぼえて快諾した。なお、山口はプライベートで渥美と俳句の会を共にする間柄でもあった。
まず、山口は「変容する女の顔を五枚に描き進めて、最後の顔はすべてが昇華された美しい死に化粧」(『報知新聞』 77年12月17日)というイメージ画を用意したものの、これを基に小川真由美へメイクを施し、さらに照明を当てた上で撮影を行ってイラストのイメージに近づけようとしたものの、これは至難の業だった。「腕の良いメークアップ・アーチストの力をお借りして回を重ねて再現を試みたのですが、動きの中での汗とか、フィルムの現像により紫系の色が赤紫に傾く点とか思わぬ困難に出くわして、結果的には、せっかくチャンスをいただきながら、あまりお役に立てなかったのがとても心残りです」(前掲)と、意欲的な試みが成功とは言い難い結果になったことを悔やんだ。
こうして全国各地の鍾乳洞を切り取っていくことで、八つ墓村の地下に存在する巨大な鍾乳洞が誕生したわけだが、このロケで最も苦心させられたのは俳優ではなく、コウモリだった。劇中、鍾乳洞の場面が終盤に差し掛かると、中で生息する無数のコウモリが動き出して、大きな変動が起きる。そして外界へと飛び出したコウモリの群れは八つ墓村の空を染めるほど舞い、遂には多治見家の屋敷を延焼させるという、アルフレッド・ヒッチコック監督の『鳥』(63)を思わせるスペクタクルシーンとなる。多治見家の邸宅を炎上させる場面は、ミニチュアやセットを用いて火を付けたが、それ以上にコントロールが難しいコウモリをどう扱うかがスタッフを悩ませた。
野村は、「いろんな方法で実際のコウモリをロケーションで撮りに行きましてね。それも本当に瞬間しか撮れないんですね。今度は作りもののコウモリを、いろんなものを作ってみて、ほんとうに見えるというところまでやっていったんですけど、それを機械で動かしても、ワンカット一秒が限度ですね」(『映画時報』前掲)と、実物と作り物のコウモリを混在させながらリアリティを損なわずに描く困難を語っている。
本物のコウモリは、高知県の龍河洞に多く生息していることがわかり、1976年5月と、77年3月の二度に渡るロケが行われた。高さ5メートルほどある洞窟の天井にぶら下がっているコウモリを撮影のタイミングで飛び立たせる方法を、撮影助手の木村隆治が前掲の『映画テレビ技術』で記している。
「蝙蝠は赤い色に対して、反応が鈍いということなので、懐中電灯に赤いフィルターをはって、天井のくぼみに集っている大群を捜し、カメラを準備して、タングステンと切り変えると同時にカメラのスイッチを入れる。するとカメラの音が洞内に反響して、一斉に飛び出し、レンズ前は一瞬にして、蝙蝠でうまった。(略)1時間位経つと、もとの巣に集ってくる。さあ、もうワンカット、アップ、ロング、etc」
いやはや、大変な時間のかかる撮影で、時間に余裕のある現場でなければ、このような撮影は不可能である。それでも、本物のコウモリでは撮れないカットも出てくる。外に飛び出したコウモリの群が夕方の八つ墓村の空を染めるカットでは、ムクドリが代用されている。これは埼玉県北越谷にある宮内庁が管理する埼玉鴨場で撮影されたものだ。
さらには、アニメーションも使用することになった。撮影の川又昂によると、「劇中、洞窟内で人をめがけて飛んでくるところや、洞窟内を飛んでいるシーンはアニメ(合成)」(『FUJIFILM INFORMATION』77年12月号)とのことだが、多治見家の外観をコウモリが飛び交うカットもアニメーションだろう。そして最も大掛かりとなったのは、多治見家の炎上シーンに登場するコウモリである。
多治見家の仏間で佇んでいる小竹の前に、障子を突き破ってコウモリが侵入して室内を舞い、仏壇の蝋燭を倒したことから引火し、炎が燃え広がっていく。小竹は意に介さず一心に拝み続け……という場面だが、これは山口県の秋芳洞の入口前に多治見家の仏間をオープンセットで建て、このセットを金網で囲んで洞窟とセットを接続し、コウモリをここに追い込むという、何とも荒っぽい手法が取られた。引火するコウモリは本物に見えるが、後ろ姿の小竹は人形である。実際の撮影ではスタントマンが小竹に扮して、火だるまになって立ち上がるカットも準備されたが、火の回りが早く、使い物にならなかったという。
鍾乳洞のシーンが撮り終わると梅雨があけ、7月20日から8月の半ばにかけて、村のロケを中心としたラストスパートに入った。八つ墓村のロケ地は、鳥取と岡山の県境に近い鳥取県日野郡日野町が村全体のイメージをつかさどる場として選ばれたが、村のシーン全てがここで撮影されたわけではない。
多治見家の邸宅に見立てて使用された岡山県高梁市成羽町の広兼邸を中心に、高梁市では村のディテールが数多く撮影されている。辰弥が車で初めて村へ入っていくと、濃茶の尼が「たたりじゃ!たたりなんじゃ!」と詰め寄ってくるシーンは、高梁市落合町福地。ここにはバス停や酒店があり、その後も劇中に登場する。なお、バス停は撮影のために設置されたロケセットで、撮影後はその廃材を酒店の主人が貰い受け、物置として使用したという。辰弥の異母兄にあたる多治見久弥(山崎努)が変死した後、土葬途中で警察が介入してくる墓地の場面も、高梁市成羽町で撮影されている。
そして8月7日には、八つ墓明神や広兼邸がオープンセットで作られた日野町で炎上シーンが撮影され、8月20日前後にすべての撮影を終えた。1976年8月16日のクランクインから文字通り丸1年を経て、『八つ墓村』はクランクアップを迎えた。
渥美は「足でいろいろ聞き歩く探偵気分にひたれたが、疲れた」(『東京タイムズ』77年8月20日)という言葉を残し、年末に撮影予定の『男はつらいよ』の次回作まで充電期間に入った。