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『八つ墓村』(77年版)横溝ブームに角川映画、時代の渦中で何が起きたのか?【そのとき映画は誕生した Vol.3 後編】

※資料(新聞広告):筆者蔵

『八つ墓村』(77年版)横溝ブームに角川映画、時代の渦中で何が起きたのか?【そのとき映画は誕生した Vol.3 後編】

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ショーケンのいらだち



 1977年9月19日、銀座の松竹セントラルで『八つ墓村』完成披露試写会が開催された。会場には横溝正史も姿を見せ、隣に『すばらしき仲間』で共演以来、すっかり打ち解けた小川真由美が座った。『現代』(77年9月号)のグラビア「合同奇縁」にも2人は登場し、「それ[引用者注:番組共演]以来、家内などもこのひとのことを呼ぶとき、いつも真由美ちゃんと呼んでいる。可愛い娘がひとり出来たとでも思っているのであろうか」という一文を横溝は寄せている。


 試写では、ショーケンが「喧嘩もありました。いろいろありました」と挨拶したが、事実、撮影現場は和やかなものではなかったようだ。監督の野村芳太郎は、こう記している。


 「ショーケンの気持ちと小川真由美君の衝突もあり、私が『砂の器』以来、橋本プロと二股をかけている点とか、待たされてイライラしている川又昂氏の気持ちなぞがしっくりせず、(略)スタッフのまとまりが珍しく悪い仕事となって、あとに残った」(『映画の匠 野村芳太郎』)


 ショーケンと小川がぶつかった事件については、『報知新聞』(77年12月25日)が詳細を報じている。最初の衝突はポスター撮りのときに起きたという。メイクに時間がかかり、小川がいつまで経っても現れないことにショーケンがしびれを切らして帰ってしまった。その後、鍾乳洞の中で撮影された2 人のラブシーンで、いよいよ関係が悪化する。小川が毎回本気でやられてはたまらないとクレームをつけるなど、毎日が一触即発の状況で、どちらかが降りると言い出さないか、スタッフは気を揉んでいたという。ショーケンは三國連太郎、山崎努らと同じく、乱暴する場面も性的な場面も同様にリハーサルから本気を出してくるので、相手役の負担が大きかった。殴られるシーンなどは、何度も力いっぱいに殴ってくるのでフラフラになったと彼らの共演者は口を揃える。それが〈熱演〉と呼ばれた時代だった。


 そして、決定的な事件が起きる。以下、紙面から引用する。


 「ついにその日がきたのは沖永良部島での昇竜洞と水連洞のロケ現場。スタッフもまじえた酒席で演技論に話が及び、小川がついに禁句を口にしてしまった。『あなたみたいな芝居してちゃ、あと数年で役者終わりよ』頭にきたショーケンはついにポカリ。以降二人は口もきかず、タクシーやロケバスにも同乗を拒否。ショーケンは自分のキャンピングカーにこもってダンマリ戦術で通した」


 酒席でショーケンが小川に暴力を振るったのが事実なのか、記事以外の傍証は得ていないが、ショーケンと野村の言葉から、何らかのトラブルが2人の間にあったことは間違いないだろう。


 ショーケン自身も自伝『ショーケン』で、「それにしても、変な映画だった」と述懐するように、かなりのストレスを抱えて撮影に臨んでいたようだ。小川については、鍾乳洞の中を駆け回る彼女の全身レザーの衣装を、渥美清が「健ちゃん、こんなところにも、ブラック・エンペラーがいるのかい?」と暴走族に例えてショーケンを笑わせていたことが記されている程度だが、優等生然とした小川を、不良出身の渥美とショーケンが嘲笑していたであろうことは想像に難くない。


 むしろ、ショーケンのいらだちは演出にあったようだ。曰く、「監督は野村芳太郎さんだけど、本番まではパチンコやってんの。それまで川又昂さんという名カメラマンが監督代わりを務めるのです」(前掲)と不満を述べている。特にショーケンが違和感を覚えたのは、鍾乳洞の中で双子の老婆の1人が死体となって池に沈んでいるのを見つける場面だ。


 このとき金田一は、一度は死体の手を持って引き上げるも、「いずれ現場検証があるから、これはこのままにしておきましょう」と、老婆の手を押し戻して再び池に沈めてしまう。これは今でも名画座で上映されると失笑が起きる場面だが、ショーケンも撮影時にそのことに気づいていた。「それはないんじゃない? いくら何でも、不自然でしょう? おれはこのいい加減さに我慢がならなくなってきた」(前掲)と、野村にも意見をするが、取り入れられなかった。


 ショーケンの不満は、演出がいいかげんということに尽きるが、野村にも言い分はあった。後年、自身の演出スタイルについてこう語っている。


 「最近、ぼくは俳優さんに会うときに最初に言うのは、ぼくは何も言いません、というところから始まるんです。ぼくは演技のことは何も言いませんよ。つまり、ぼくは映画全体のことを見ているから、(略)質問があったらなんでも聞いてください、ぼくのほうは何でも答えます。でも、どういうふうに演技すればいいか、あるいはもっとこういうことをやったらいいのではないかというのは、俳優さんは自分をいちばん大事にしているのだから、俳優さんが考えていくべきことであり、また考えているはずで、(略)そのかわり、脚本に書かれている枠から離れても、いろいろなことを考えてきてもらってもいいから、ぼくに相談してください、ということを話すわけです」(『NHK人生読本(5)』


 ようは演技を俳優に一任するというスタイルだが、これは現在の映画監督にも少なくない方法で、俳優がイメージを自由に飛躍させることが出来る一方で、それが出来ていなければ演技が迷走し、監督が演技を修正できないまま放置されてしまう問題も起きる。それまで市川崑(『股旅』)、深作欣二、工藤栄一(『傷だらけの天使』)、神代辰巳(『青春の蹉跌』『アフリカの光』)の作品に出演してきたショーケンにとっては、自分の演技について何も言わず、本番までパチンコをしている野村とは相性が合わなかったということだろう。


 1977年8月下旬にほぼ撮影を終えた『八つ墓村』は、翌月の公開に向けて急ピッチで仕上げ作業に入った。1年がかりの撮影の割に、公開直前まで撮影を行っているところは、従来の日本映画と変わらないせわしなさだった。


 9月2日、音楽を担う芥川也寸志が70数名のオーケストラを指揮し、音楽録音が行われた。9月4日からは、音楽、効果音を付けていくダビング作業が5日間を費やして作業された。『八つ墓村』の音入れ作業において、最も大きな問題は蝉だった。ロケを重視したこともあり、渥美が謎解きを行うクライマックスでは、撮影現場で同時録音された台詞には、カットごとに蝉の音が大きく入っており、画面に渥美が映らないカットの渥美の台詞は一部をリテイクすることで、クリアな音を収録することができた。鍾乳洞の中で響く声の処理も、このダビング作業時に行われたものだ。


 また、撮影スケジュールに余裕があったことのメリットとして、芥川によるテーマ曲が6月に作曲されており、音楽をガイドに撮影を行うことも試みられており、音楽と映像を一体化させる意味でも効果をもたらした。


 音楽に関しては、当初から野村と芥川の意向もあり、大胆なミキシングが行われた。一般的な映画よりもレベルを強調することで怪奇性を高める表現が模索された。実際、メインタイトルが出る瞬間や、舞台が移動したとき、事件が起きたときの音楽は、劇場で観ると一目瞭然ならぬ一聴瞭然の圧倒的な音の厚みと迫力を体感できる。殊に村人32人殺しの場面は、撮影と演技と音楽が一体化した見事な効果を上げ、恐怖を盛り上げる。


 9月14日夜に松竹セントラルで松竹幹部、スタッフらが立会いのもと検定試写が行われ、『八つ墓村』は遂に完成を迎えた。冒頭に記した完成披露試写が5日後に無事に開催され、9月23日の公開初日を迎えた。





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