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『八つ墓村』(77年版)横溝ブームに角川映画、時代の渦中で何が起きたのか?【そのとき映画は誕生した Vol.3 後編】

※資料(新聞広告):筆者蔵

『八つ墓村』(77年版)横溝ブームに角川映画、時代の渦中で何が起きたのか?【そのとき映画は誕生した Vol.3 後編】

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製作再開への序章



  1977年3月1日、松竹本社が入った東劇ビルの18階にあるフレンチレストラン、エスカルゴで、「これが八つ墓村だ!」と題したキャスト披露パーティが開かれた。105名に及ぶ全キャストが決定し、山崎努、山本陽子、田中邦衛、井川比佐志、夏八木勲、加藤嘉、大滝秀治といった出演者たちの顔ぶれも公となった。


 前年に渥美清、萩原健一、小川真由美らは決定していたものの、ミステリ映画では脇役に主要キャストと同等の、あるいはそれ以上に芸達者たちを揃える必要がある。それぞれの人生と思惑と疑惑を背後に漂わせるだけの厚みを持つ演技を、限られた場面の中で凝縮して見せなければ、ミステリ映画はとたんに白けたものになってしまう。時間をかけたキャスティングの甲斐あって、実力派の演技陣が顔を揃えることになった。


 その中でも注目を集めたのは、双子の老婆、小竹と小梅である。物語で重要な役割を担い、その不気味な存在が際立つだけに、誰が演じるのが相応しいか、キャスティングは難航した。


 当初、この役に白羽の矢が立ったのは、双子のデュオ、ザ・ピーナッツだった。これは監督の野村芳太郎が要望したもので、「ソックリさんでやってみても、片っ方が芝居が出来なかったら、(略)置き物じゃないんだから、だめだし、そうかといって、ダブルオールなんて、初めはあれっ!って思うかもわからないけれどもいまや映画の技術はみんな知ってるから」(『映画時報』77年6月号)ということから、ピーナッツの名前が挙がったようだ。


 『日刊スポーツ』(77年5月9日)は、起用を断念した理由に、「七十数歳ではあまりにもかわいそう、というよりジュリー(沢田研二)にドヤされる」としているが、ザ・ピーナッツは1975年2月に引退を発表し、翌々月にかけて最終公演を行って引退。5月には姉の伊藤エミと沢田研二が結婚を発表し、以降、芸能活動は行っていない。したがって、ピーナッツを『八つ墓村』へ起用するには、芸能活動を再開させねばならないが、当初は1975年に撮影、公開を行う予定だったことから、おそらく引退直前に出演させる心算だったのではないか。


 とはいえ、当時34歳のピーナッツに老婆というのは似つかわしくないが、野村は老けメイクで演じさせることに勝算があったようだ。前掲書で「双子のほんとうのおばあさんといってみても、芝居が出来る双子のおばあさんがいるわけじゃない」と語っているところから、小竹・小梅=ザ・ピーナッツ構想は、あながち冗談でもなかったようだ。


 結局、映画・演劇関係から、似た風貌を持った俳優から選ぶことになり、様々な組み合わせが検討された。一時は、田中絹代と市川春代というサイレント映画時代からのスター女優を起用する案が固まりかけたが(これは、当時、放送中のTVドラマ『前略おふくろ様』でショーケンと田中が親子を演じていたことも踏まえたキャスティングだろう)、田中は1977年1月に倒れ、3月に逝去してしまう。その後も、岡田嘉子、沢村貞子、北林谷栄らの名前が挙がったが、最終的に市原悦子と山口仁奈子という似た風貌の2人に決まった。共に俳優座養成所出身で、市原が3年先輩にあたり、その当時から似ていると言われていたという。それでも当時の市原は41歳になったばかりだから、ザ・ピーナッツに老けメイクで老婆を演じさせる構想の延長上にあるキャスティングと言えよう。


 全キャストが披露された「これが八つ墓村だ!」に続いて、3月5日には「朝日新聞」夕刊に、『八つ墓村』の全面広告が打たれた。村を一望する俯瞰の画に、「日本映画の最高スタッフが放つ松竹超大作」の文字が重なり、壮大な大作の雰囲気が漂う。とはいえ、「横溝文学の最高峰 撮影快調!」は、正確とは言い難い。前年の秋以来、撮影はまだ止まったままで、ようやくこの年の4月から撮影再開にこぎつけようとしていたのだから、野村が述懐するように、「すべてはそのモヤモヤのなかから前進の姿勢を見せるために行われたもの」(『映画の匠 野村芳太郎』)だった。


 『八つ墓村』に山積していた製作費、橋本忍の脚本料の問題などは、杉崎重美企画部長の采配によってようやく玉虫色の決着を見せるなど、撮影中断の間も、いつ『八つ墓村』が中止になってもおかしくはない状況にあった。1976年夏の先行クランクインも、キャスト披露パーティも、新聞全面広告も、世間に向けてのアピールというより、松竹社内に向けて後には引けない雰囲気作りといった方が正しいかもしれない。


 そして、『八つ墓村』の頭上に立ち込めていた暗雲は、一人の男の突然の死によって晴れたとも言えた。1977年4月18日、松竹の城戸四郎会長は自宅で夕食後に庭いじりをしていたところを胸の痛みを訴えて倒れ、病院に搬送されたが2時間半後に死亡が確認された。82歳だった。最期の瞬間まで現役を貫いた城戸は、この日、文化庁、第一勧銀のパーティに顔を出し、夕方からは帝国ホテルでひらかれた三船プロ主催のパーティに参加し、アラン・ドロンらを前にして乾杯の音頭をとった直後だけに、映画関係者は一様に驚きを隠せなかった。


 野村も「オヤジ(野村芳亭監督)の代から、ボクも生まれた時から目をかけてもらっていました。あれだけ映画に愛着を持っていた人はいません。これからはだれがリーダーシップをとっていくのでしょうか」(『スポーツニッポン』77年4月20日)とコメントしたが、『八つ墓村』の製作においては障害にもなっていた存在だけに、後年、「城戸会長の死で、ある意味では問題が解決したところもある」(『映画の匠 野村芳太郎』)と内心を明かしたように、この突然の死には複雑な感情を抱いたに違いない。『八つ墓村』が本格的な撮影に入ったのは、城戸の死の2日後のことだった。





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