『野火』あらすじ
第二次世界大戦末期、フィリピンのレイテ島。日本の敗北が濃厚な状況下で、肺病を患った一等兵・田村は部隊から追い出され、病院からも食糧不足を理由に入院を断られる。病院の前で、田村は同じく厄介者として見放された若い兵の永松、足の負傷で歩けなくなった中年兵の安田と出会う。病院が襲撃され、一人逃げた田村は、飢えに駆り立てられるように熱帯のジャングルを彷徨う。途中、別の部隊に同行するが、米軍の一斉砲撃により他の兵士たちは全滅し・・・。
Index
奇妙で現代的な真実感
「戦争は、人間から、知性というか個性というか、そういう大切なものを剥ぎ取ってしまう罪悪ですからね。もちろん『野火』は、そのことを生に訴えるんじゃなくて、戦争という悲劇を、徹底的に客観視しようとしたんです」(*1)
映画『野火』(59)を制作するにあたって、監督の市川崑はこのような発言をしている。本作は、大岡昇平の戦争体験を元に書かれた同名小説の映画化作品。太平洋戦争末期のフィリピン・レイテ島を舞台に、現実とも狂気ともつかない地獄絵図が綴られる。主人公・田村一等兵(船越英二)の第一人称で語られる構成ともなれば、戦争の恐ろしさをいくらでも個人的・主観的に掘り下げることができただろう。ところが市川崑は、むしろ過酷な状況を「徹底的に客観視」しようとする。
『ぼんち』(60)を映画化した際に、市川崑は原作者の山崎豊子から「私の小説は大木の根っこである。市川さんの演出は鋭くてモダンだが、ナイフにすぎない。あのナイフでは私の太い根っこは料理できない」(*2)と強烈な一言をカマされているが、過度な感情操作を避けるクールな視座こそが、市川ism。塚本晋也が監督、脚本、製作、主演を務めたリメイク版『野火』(14)が、目を覆いたくなるほど生々しい阿鼻叫喚ムービーだったことを思えば、そのタッチはより際立つ。極限状況におけるカニバリズムを描いた作品であるからこそ、市川崑は理知的な態度を貫いたのだろう。
『野火』©KADOKAWA 1959
映画は、田村が分隊長にブン殴られる場面から始まる。肺病を患って野戦病院に行ったはずなのに、なぜすぐ戻って来たのか、となじられる。およそ3分間にわたる曹長の独壇場芝居。カメラは、激昂する曹長と、死んだ魚のような目をした田村のクローズアップを切り替えして繋いでいく。初っ端から、市川崑の小気味良いエディット感覚が唸りを上げている。
市川モダン演出は、主人公・田村の人物造形にも及ぶ。なんとも掴みどころのない、茫洋としたキャラクター。部隊を追い出され、野戦病院にも追い出された彼は、どこにも属さない孤立した男として描かれている。頼るべき場所も、帰るべき場所もない。彼はもはや生きることにも執着しておらず、いつか訪れるであろう死を淡々と待ち受けている。
生と死の中間的存在。おそらく田村は、最初から“向こう側”に片足を踏み入れている。だからこそ彼は、この地獄のような世界を主観ではなく「徹底的に客観視」できるのだろう。市川崑は、そこから生まれるのは「奇妙で現代的な真実感」だと語る。
「如何なる凄まじい状況に追い込まれても、遂に獸になりきれなかった人間の物語にすること。人間が人間を喰う状況を描く。今日、その事にリアリティを与えるのは戦争である。とにかく、腹のへった人間というものを徹底的に描く。そう云う状況におかれたとき、人間の知性が、それと対抗し得るかどうか、そこに問題がある。それを、客観視すればする程、つまり、状況をつきつめれば、凄絶と云うより奇妙である。奇妙……そこに現代的な真実感があると思う」(*3)