2025.08.12
“生”ではなく“存在”を剥奪する恐怖
『ジョニーは戦場へ行った』は、数ある反戦映画の中でも特に異彩を放つ。その理由は、主人公ジョー・ボナムが第一次世界大戦で全身に重傷を負い、視覚、聴覚、発声、そして両手両足を失いながらも、意識だけは明瞭に保たれているという、その過酷な設定にある。彼は外部から完全に遮断され、内なる世界に閉じ込められているのだ。
多くの反戦映画が、夥しい数の死、肉体的な損傷、あるいは精神的な苦痛を直接的に描くのに対し、この作品が描くのは“存在”そのものの剥奪。それは、ある意味で“生”の剥奪よりも恐ろしい。ジョーは生理学的には生きている。心臓は鼓動し、脳は活動している。しかし、彼は他者と関わることも、世界を知覚することもできない。
彼は軍のモルモットとして、ただそこにいるだけの存在であり、生きているという実感すら持てない。戦争が人間の尊厳をいかに根底から破壊するかを、比類のないほど過酷な形で示している。我々観客は、ジョーという一人の青年が、その人間性を徐々に失っていくさまを目の当たりにするのだ。
この映画では、恋人との甘い思い出や両親との会話など、ジョーの記憶がたびたびフラッシュバックする。かと思えば、キリストと思われる人物との対話も描かれていたりする(演じているのは、まさかのドナルド・サザーランド!)。それは、外界とのコミュニケーションを絶たれたジョーにとって、自己と向き合うための重要な手続き。つまり内なる対話だ。
『ジョニーは戦場へ行った』©ALEXIA TRUST COMPANY LTD.
「なぜ自分はこんな目に遭わなければならないのか?」とジョーは問いかける。しかしキリストは明快な答えを与えてはくれない。ジョーの苦しみを共有し、共に絶望することで、彼に寄り添うだけ。別にこれは、宗教的な意義を表現した場面ではないだろう。戦争によってすべての感覚を奪われたジョーの、葛藤、絶望、そしてわずかな希望を象徴的に描いたものだろう。神という超越的な存在よりも、人間的な共感や連帯の中にこそ救いを見出そうとする、トランボの切実な想いが込められている。
かつての戦争映画が、愛国心や自己犠牲を英雄的行為として美化していたのに対し、『ジョニーは戦場へ行った』はその神話を徹底的に破壊する。ジョーは、名前も顔も知られることのない、単なる無名の兵士。彼がモールス信号で「殺してくれ」や「私を見世物にしろ」と訴えるシーンは、彼の犠牲が国家の栄光ではなく、単に無意味な行為の結果であることを暴き出している。
“生”ではなく“存在”を剥奪する恐怖。この映画は、ダルトン・トランボが声なき者の代弁者として創り上げた反戦映画なのである。
(*1)https://www.loc.gov/collections/patriotic-melodies/articles-and-essays/over-there/
(*2)(*3)https://www.rogerebert.com/interviews/interview-with-dalton-trumbo
文:竹島ルイ
映画・音楽・TVを主戦場とする、ポップカルチャー系ライター。WEBマガジン「POP MASTER」(http://popmaster.jp/)主宰。
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配給:KADOKAWA
©ALEXIA TRUST COMPANY LTD.