まだ見ぬ世界へ開かれた扉
老境のマルティネスの身にほぼ同時に起こった二つの象徴的な出来事は、大きな悲劇でありながら、同時に「まだ見ぬ世界への扉」にもなり得る。
会社で解雇を示唆された時、彼はショックのあまりに「何かの間違いだ」と口にして頑として譲らないが、しかしその後、20歳ほど歳の離れた後任候補のパブロとの親交を温めることで、誰かと共に過ごす時間の楽しさを噛みしめていく。
さらなるターニングポイントは、ある時、実に衝動的にもたらされる。孤独死した階下の女性アマリアの遺品を、マルティネスが自分でも信じられないほどの強い思いに駆られて、ゴミ置き場からごっそりと持ち帰ってしまうのだ。
『マルティネス』© 2023 Lorena Padilla Bañuelos
簡素な暮らしを好む彼の部屋には無駄なものが一切ない。そんな“がらんどう”とも言える空間に、アマリアの生活臭に満ちた品々が大量に持ち込まれる。そんな一品一品を紐解くたびに、これまで抱いたことのない瑞々しい感情がほとばしる。例えば彼女が遺した「to doリスト」。それを代わりにこなすにつれ、生前、ほぼ顔を合わせたことのなかったアマリアへの思慕は深まっていくばかり。
かくして、これまで自分の世界を頑なに守ってきたマルティネスは、思いがけなくも他者を受け入れ、その存在を愛おしいとさえ感じるようになっていく。そう、これは相手不在のままで巻き起こる、不測にして異色のラブストーリーでもあるのだ。