2025.09.03
崩壊後の新しい時代、21世紀
牢屋に受刑者が一人一人入ってくるシーン等、『ぼくら、20世紀の子供たち』には明らかに演出されたシーンがある。カネフスキーは“作為”を隠さない。自分がどれほどタフであるかをアピールする子供たち。ある意味、ギャングスタ・ラップ的な子供たちの“自己演出”とカネフスキーの演出はとても相性がよい。廃墟のような隠れ家で犯罪自慢をする少年たち。10歳なのに殺人を犯した少年。たった一杯の酒のために母親に売りとばされた少女は、家に帰るより収容所にいる方がずっとマシだと語る。見捨てられた子供たち。ギャング団の少年は、両親によるネグレクトを告白する。1991年12月のソビエト連邦崩壊によって、90年代のロシアは20世紀というよりも21世紀に属するという見方がある。93年にカネフスキーが“20世紀の子供たち”の現状を記録に残したかったのは、新しい時代、21世紀へ向けられた警告でもある。
本作の撮影は、計画的な“シナリオ”に基づいたものではなく、編集の段階で子供たちの豊かな表情が選んでいったのだという。カネフスキーは本当に子供を撮るのが上手い。子供たちの傍若無人な無邪気さだけでなく、内に隠している悲しみや負い目を暴いてしまう。いわば子供たちはカメラの前で“丸裸”にされる。カネフスキーは、収容所の子供たちを鏡の前に立たせる。子供たちは鏡の前で自分の犯した罪を告白する。すべての子供たちが鏡に映る自分と目を合わせられない。どんなにタフであることを誇示しようと、目を合わせられない。子供たちの視線の逃がし方には、言葉にされることのない、それぞれの物語が浮かび上がっている。真実はその人の沈黙の仕草の中にある。『動くな、死ね、甦れ!』と『ひとりで生きる』で、ワレルカ=パーヴェル・ナザーロフのハッと見開いた瞳を執拗に捉えることで追及された手法が、ドキュメンタリー映画にも用いられている。
『ぼくら、20世紀の子供たち』
沈黙というテーマにおいて、野良犬たちのシーンは象徴的だ。おそらく殺処分されると思われる犬たちが囚人のように不潔な小屋に閉じ込められている。犬たちは何も言葉にすることができない。悲鳴をあげるだけである。しかし犬たちの悲鳴や瞳には、胸が圧し潰されそうになるほどの生がある。命がある。そしてカネフスキーの3部作に一貫しているのは、生そのもの、命そのものを観客に見せることである。