2025.09.03
『ぼくら、20世紀の子供たち』あらすじ
国際的な評価を得たカネフスキーが次にカメラを向けたのは、社会体制が崩壊したロシアの都市に巣くうストリート・チルドレンたち。窃盗、強奪、売春、そして殺人…残忍性をエスカレートさせていく彼らの裏側に傷つきやすい感受性を見るカネフスキー。やがてカメラは、思わぬ場所でワレルカの面影を残したパーヴェル・ナザーロフの姿を捉える。
Index
社会が見放したことによるツケ
「ロシアは、生まれる子供の多くが病気を持っている。子供の食べ物に全く配慮していないんだ。この状態は、将来きっと私たちに返ってくると思っている。」(ヴィターリー・カネフスキー)*
『動くな、死ね、甦れ!』(89)と『ひとりで生きる』(91)という歴史的な2本の傑作を撮ったヴィターリー・カネフスキー監督は、フィクション映画を“凍結”させ、ドキュメンタリー映画の制作に向かう。フィクション映画でやれることは、すべてやりつくしたかのように。しかし、モスクワやサンクト・ペテルブルグのストリート・チルドレンを追った『ぼくら、20世紀の子供たち』(93)は、これまでの作品と同様、カネフスキーの極めてパーソナルな映画であり、間違いなくこの映画作家にしか撮ることのできない傑作だ。
ストリート・チルドレンだったカネフスキーは、彼らへの話し方をよく知っている。投獄経験のあるカネフスキーは、受刑者たちの攻撃的な警戒心と向かい合うための身振りを知っている。フレームの外にいるカネフスキーは、ときに不謹慎な言葉を被写体に投げかける。カネフスキーの“正しさ”を欠いた言葉によって、子供たちや受刑者たちの警戒心が解かれていくのが伝わってくる。しかしカネフスキーがフィルムに浮かび上がらそうとしているのは、証言のその先にある。この映画のもっとも真に迫るドキュメンタリー性は、子供たちの紡ぐ、俄かには信じがたいような言葉だけでなく、彼らの身振りの癖や、視線の逃がし方の中に生まれている。
『ぼくら、20世紀の子供たち』
10歳にも満たないであろう子供たちが路上でタバコを吸っている。インタビューを受けるストリート・チルドレンの後ろで、喧嘩のようにじゃれ合う子供たち。『動くな、死ね、甦れ!』の少年ワレルカ(パーヴェル・ナザーロフ)を捉えるカメラワークがそうだったように、カネフスキーの興味は子供の多動性にある。前2作以上に、カメラは子供たちの多動性、落ち着きのなさを追いかけている。
本作は鉄扉が開くカネフスキー的な始まりを告げるショットで幕を開け、生まれたばかりの赤ん坊のイメージへ続いていく。ドキュメンタリーの調査対象となる被写体は、ストリート・チルドレンにはじまり、児童労働収容施設に保護された子供たち、受刑者の子供、ハイティーンの受刑者たちへと移り変わっていく。それは子供特有の多動性=無邪気さが徐々に失われていく過程であり、模範的な大人になることへの希望が少しずつ失われていく過程でもある。大人から見捨てられた子供たち、社会から蓋をされた子供たちが、そのまま大人になったらどうやって生きていくのか。カネフスキーの主張は人道的だ。子供たちを見放したツケは必ず自分たちの将来に返ってくる。取り返しがつかなくなる前に!その思いがこの映画を作る強い動機となっている。